二十二代庄之助一代記 〈第一回〉

                                     

泉  林 八

生まれは香川県牟礼村

私が生まれた所は、香川県三木都牟礼村南神。現在は、山田郡と合併されて木田郡、牟礼村が牟礼町に変わっている。

源平の戦で名高い壇ノ浦が、西北方ほんの二、三キロのところにあり、私の村にもあちこちに古戦場がある。東北に五剣山があり、西には屋島山が海に突き出し、屋島のすそをめぐって入り海となり、昔は、洲崎寺という寺のあたりまで舟で行き来したらしい。

農業を営む父は菊次、母はイワ。明治二十三年三月一日に生まれた私は、兄二人、姉五人の八人きょうだいの末っ子で、林八と名づけられた。おじいさんが林平といったので、その林と、八人目の八から、林八とつけられたのだそうな。

いちばん上の姉さんなど、私がものごころついたときにはもう、とっくの昔に嫁にいっていて、ほとんどみたこともない。確か一度か二度、古高松にある嫁ぎ先へ遊びにいったことがあるような気がするだけである。子供が多いから、当然貧乏だった。

おじ(父の兄)が屋島のすその潟元村というところに住み、酒屋をやっていた。屋号を「角屋」といった。

 私がまだ四、五歳のころ、母に連れられて何度か遊びに行ったおぼえがある。家から西へ一里(約四キロ)たらず。潮が満ちたり干いたりする小川の土手の向こう側は一面の塩田で、男も女もいっしょになって塩づくりをしていた。

 その塩田のかたわらにはツメの赤いカニがたくさんはいまわっているので、それをつかまえようとしてなかなか歩かない私は、何度も何度も母にしかられながらおじの家へ行ったものだった。

おじの家にあまり長くいることはなく、夕方になるとまた、母と二人で、もとの道を歩いて、牟礼の家へ帰った。

いまから考えると、明治三十一年の十月の末か十一月はじめのことだったと思う。

ある日、私は、どうやって、なんのために行ったのか、どうしても思い出せないのだが、おじの酒屋「角屋」にいた。

当時私は、満にして八歳。遊びたい盛りで、おじの家へ上がり込んで暴れ回っていたが、ふとみると、奥の座敷で、おじと、ちょんマゲを頭にのせたお相撲さんが、さしつさされつ、酒をくみかわしている。

おじの酒屋で行司となる

このおじは、大の相撲好きで、自分でも素人相撲を取ったり、ひいきの相撲取りも二、三いたようだった。相撲がひいきといっても、そのころは大阪相撲や京都相撲が全盛のころだから、この讃岐界わいは、土地柄、関西相撲に力をいれていた。

 そのお相撲さんは、二、三人いたひいき力士のうちの一人で、大阪相撲の竹縄部屋所属の粂川という力士だった。当時、三段目から幕下へ上がったばかり、たまたま巡業で、高松在の鬼無村へきた機会に、あいさつに寄ったとのことだった。

 おじはえらいごきげんで顔をほてらせ、ほていさんのように腹を出し、粂川と世間話に花を咲かせていた。

 私は、酒ダルの間を走り回ったりする一方、もの珍しさから、奥座敷のほうにもちょろりちょろりと顔を出した。

 いまになっては、おじと粂川さんがどんな話をしたのか、わかるはずもないが、だいたい次のようなぐあいに話が進んだのではないだろうか。

「あのうろちょろしているちっこい坊やは近所の子ですかい?」
「あれは、わしのおいっ子だ」

「それじゃ、相撲は好きでしょう」
「相撲のことは知らんことはないだろう」

「そうですか。どうでしょう、ダンナ、あの子を行司にしませんか?」
「え、本職の行司にかね?」

「ええ、うちの親方が行司をひとりふたりほしいといってたもんで…」
「そうか。あいつは八人きょうだいの末ッ子だから、家にいなくてもどうということはないだろうが…」

おじの家から巡業に直行

 そのうち、酒も食事も終わったらしく、秋の日がだいぶ西に傾いたころ、おばが私にいうには

 「このお相撲さんが、お前を相撲見物に連れてってくれるからね。いっしょにいきなさい。悪さしないでおとなしくして、お相撲さんのいうことをよく聞くんだよ」

そして、富有柿を四つか五つ、小さいふろ敷きにつつんで渡してくれた。

 そのうち、したくがすんだ粂川さんが出てきて、赤い顔のおじも表へ出てきた。すぐに人力車がやってきて、粂川さんが乗り、その前に私も乗せられた。乗ったというより立ったのである。

 見送りのためか、人が多数いたようだった。粂川さんは車の上から別れのあいさつをおじたちとかわしていた。

 私にとって、この日は大切な鹿島立ちの日になったわけだが、どうしたことか、この日のことは、思い出そうとしても、確かなことはなにひとつ思い出せない。

 両親がこの場にいたのか、いなかったのか、息子が行司になることをおじとおばだけで決めるわけにはいかないし、家が近いのだから、いたに違いないと思うのだが、その辺もさっぱり記憶がない。

 ただ、おばがくれた赤い富有柿の色だけが、いまだに心の底に残って忘れられない。
 晩秋の日本晴れの午後のことであった。
 この粂川という人は、相撲はあまり強くならず、幕下で廃業。のち、愛媛県宇摩郡上分町(現川之江市上分町)で養鶏場を経営して、余生をおくった。私は、巡業にいくたびに顔を出し、交遊を続けていたが、昭和四年ごろに亡くなった。

 あすの相撲が高松の鬼無にあるので、人力車にゆられ、秋の讃岐の浜風を受けながら西へ西ヘと向かい、粂川さんと私は、二時間近くかかって鬼無へついた。

 鬼無は、いまは高松市内だが、当時はまだ村で、旅館も二、三軒はあったようだが、相撲取りはたいてい民家へ泊まっていた。

 粂川さんも農家に泊まった。私もむろん同じ農家へ泊めてもらい、翌日、粂川さんに連れられて相撲場へいった。 私はこんなことで、小学校も尋常二年までで中退した。その後はいっさい学校の経験がない。いまなら、児童福祉法とやらでとても許されることではないだろう。

巡業に続き正月寒げいこ

 私が連れていかれた一行は、十両谷の音亀吉を頭とする四十人ほどの小相撲で、讃岐界わいをあちこち巡業して回っていた。

 それから私は、粂川さんに連れられて、毎日短い旅をやり、農家などに泊まり、相撲場へいった。所は変わるが、そこが何という町かは私にはほとんどわからなかった。
相撲場の中は、いつも新しいムシロが敷きつめてあるので、その空き地をみつけていつも遊んでいた。両親のことも、おじおばのことも、すっかり忘れて遊んだ。

 鬼無の巡業から一週間ほどたって、はじめて土俵に上げられた。おどろいて逃げ出したが、たちまち粂川さんにつかまり
「お前は行司になったんだぞ。どうしても土俵へ上がるんだ」といわれ、いやいや土俵に上がるうち、だんだんわかってきて、さらに一週間もすると、なんとか自分一人で行司をやることが出来るようになった。

 谷の音一行は、十二月になっても讃岐路をはなれるようすはなく、その辺を巡業して歩いた。当時は、小相撲なら、お客が百人も来れば上々だから、一里も離れれば、次の興行が打てるようだった。

 大阪相撲は、当時だいたい六月に夏場所を一回行うだけで、あとはいくつかに分かれて巡業に出る。正月に巡業をやっても見物がくるわけはない。
 正月が近づくにしたがって、引き受け人(勧進元)がなくなるため、巡業を一時中止、それぞれ地方のおなじみさんに頼んで寒げいこにはいるのである。

 私らの小相撲一行も、二つに分かれてそれぞれ高松近郊に空家を借り、新正月から旧正月までの約一か月をすごすことになった。
 私の組は、古高松に空家を一軒借りてけいこすることになった。
 二十人ほどの荒くれ男が、自炊の共同生活をいとなみながら、空地に土俵をつくり、松の内から、毎朝けいこが始まる。

当時は大阪相撲も全盛期だったせいか、けいこもすこぶる激しいものだった。
 私ともう一人、私より一つ年上の新弟子行司がいて、二人で毎日、けいこ相撲の行司をやらされた。シリをからげ、センスを持ち、はだしで、夜明けの薄暗い吹きっさらしのけいこ場でやるのだから、ものすごく寒い。

 足の先が凍りつき、切れるようになり、声も出なくなるまで、長いことやらされたものだった。

けいこがすむと、ランプ掃除。油をいれたりホヤをふいたり、そのあと、表をはいたりするのが毎日の仕事だった。
 
 古高松は、私の家から三キロ、おじの家から一キロほどの距離で、歩いてもすぐの場所にあったのだが、このときはついに一度も帰らなかった。
 その辺の子供たちと遊ぶほうが楽しみだったものか、帰りたいという気持ちが起こらなかった。

 しかし、父もおじもたまにはけいこ見物にきてくれたし、近所の知り合いの人も楽しみに見物にやってきて、ひょうたんにいれた酒をちびりちびりとやりながら「やあ、だれそれは強くなった」「林八もがん張れや」と声援してくれる人もあるし、中には力士といっしょに相撲を取る人も少なくなかった。

 米や野菜や魚などを差し入れてくれる人もいて、ひと月の間にすっかり顔なじみができた。

八歳で、”母子の別れ”

 そうこうするうち、旧正月になった。田舎では、旧正月のほうが新正月よりも本当の正月らしく、どこの家ものどかで、このころから農家も比較的ヒマになり、巡業もできるようになる。

 この旧正月を、〃取りあげ〃といってけいこじまいとし、ここでお世話になった土地の人たちにお礼の意味で〃取り上げ相撲〃を一日興行するのが習慣になっていた。一方の組と再びいっしょになって谷の音一行に戻り、まず古高松でやり、翌日、一方の組がお世話になっていた町でも一日興行を打つ。

 これは有料で、本戸銭を取るのだが、女性と子供は無料で、一日を楽しんでもらう。
 この二日間の相撲のあがりで景気をつけて、一行は再び新しい春の巡業へ出発するのである。これはおそらく、江戸の時代から年々くり返されてきた習慣であろう。

 取りあげ相撲は、二日間とも幸い好天気に恵まれ、近郷からも人出があって大盛況のうちに終わったので、あすはいよいよこの土地とお別れすることになった。

 あくる日は、きのう同様のいい天気で、朝の食事が終わると、相撲取り連中は、おなじみさんへのあいさつしたあと、一人たち二人たちして、昼ごろまでにはほとんど出発したようだった。

 私は、きょうで両親と別れて旅に立つのだ、ということがわかってはいながら実感とはならず、のんきに遊んでいたが、昼すぎになって、今碇というお相撲さんが「坊や、お前はわしといっしょに人力車に乗るぞ」と声をかけてくれた。

 遊びながら待っていると、そのうちに人力車がきた。今碇さんが乗り、その前に私が乗ることになり、この前おじの家から粂川さんと出たときと同じだなと思って、人力車に乗りかけたとき、すぐ横に母が立っているのをみつけた。

 私が「おかあさん!」と叫ぶのと、今碇さんが私を抱きあげるのとが同時だった。私の体は、今碇さんのまたの間にはいってしまった。

 私は、母の顔をみるなり、これまで忘れていたものが一時に出てきて母が恋しくなり「おかあさん、おろして、おろして!」と叫んだが、母は、今碇さんに「この子をなにぶんよろしく…」といっているようだった。
 私は泣き出した。涙というものがこんなにたくさんあるのかというほど、泣きに泣いた。「行くのはいやだ、おろして」と大声をはりあげて車の上で暴れた。

 今碇さんが「おかあさん、この子は私がついておりますから、心配せんで、もうお帰りになってください」といっている。 あまりさわぐものだから、近所のおかみさんだの、おじさんたちが多勢出てくるので、今碇さんも、納まるまでと待っていた車夫に「いいから走ってくれ」といった。

 母も、私があまり泣くので立ち去りかねているようだった。これが母子一生の別れになろうとは、お互いに知るよしもないが、虫の知らせというか、母も泣いていた。

 車が走り出すと、私は、今碇さんの顔をひっぱたいて暴れ、飛び降りようとしたが、動けない。そんなことをしているうちに、母の姿はだんだん遠くなり、とうとう見えなくなってしまった。
 母と別れたこのときのことを思い出すといまでも涙が流れ出てくる。明治三十二年の二月はじめのことだった。
 私の恩人というべき今碇さんは、当時三段目。幕下に長くいて四十年ごろ廃業し、大阪の玉造(天王寺区)で商売していた。
 母は、翌三十三年の冬に亡くなった。
そのとき私は鹿児島で興行していたが、当時のことで通知がきたのも五日もたったあとで、帰るにも汽車があるわけでなく、一日一回くらいの汽船便があるくらいで、私一人では到底帰れず、それっきりになってしまった。

 今碇さんが私を抱いてはなさなかったあれが母子の別れとなったのである。
 その後、徳島の辺を三月ころまで巡業して、四月、岡山県にはいり、四月の末に巡業を終えて大阪へ引きあげた。

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読売新聞社 大相撲1977年11月九州場所展望号


さし絵 伊藤豊一画