二十二代庄之助一代記〈第十回〉

泉 林 八


東西合併後初の本場所

 東西合併して初、また財団法人として初の本場所である昭和二年春場所の番付は一月七日に発表されたが、幕内は次の通り。
   東         西
 横綱西ノ海嘉治郎   常ノ花寛市
 張出△宮城山福松

 大関能代潟錦作    大ノ里万助
 張出太刀光電右衛門

 関脇小野川喜一郎  常陸岩英太郎
 小結若葉山鐘    山錦善治郎
 張出        出羽ケ嶽文治郎

 前頭清水川清行  △真鶴秀五郎
 前頭大蛇潟雄作    白岩亮治
 前頭清瀬川敬之助  玉錦三右衛門

 前頭三杉磯善七   外ケ浜弥太郎
 前頭錦洋与三郎   柏山大五郎 
 前頭東関善三郎  △桂川力蔵

 前頭朝響信親     若常陸恒吉
 前頭吉野山要治郎  常陸嶽理市 
 前頭△荒熊谷五郎  常陸島朝吉

 前頭△錦城山勇吉  綾鬼喜一郎
 前頭一ノ浜善之助   雷ノ峰伊助
 前頭阿久津川高一郎 光風貞太郎

 前頭真砂石三郎  △朝光亀太郎
 前頭星甲実義    檜錦政吉
 前頭泉洋藤太郎  琴ケ浦善治郎

 張出        綾錦由之丞
 立行司 木村庄之助 式守伊之助 △木村玉之助
 三役格行司 △木村清之助 錦太夫改め式守与太夫
 幕内格行司 式守勘太夫 木村林之助  △木村玉光 木村庄三郎 木村誠道  △木村正直

 大阪力士で合併番付の幕内に残ったのは六名、最後の大阪相撲本場所になった大正十五年一月場所番付でみると、真鶴と桂川が筆頭、荒熊と錦城山は大関、朝光は朝潮の名で三枚目となっている。
 大関若木戸、小結時潮らは幕下に、小結千年川が鹿島崎と改名して十両に名を残しているが、当時はもう東京と大阪の力はそれほどに開いていたのである。

 行司のほうも、立行司以外は一応の審査があった。最初の審査場所である京都の相撲のとき、大阪の清之助、東京の勘太夫(のちの二十一代庄之助)、私、庄三郎(のちのヒゲの伊之助)らが土俵上で顔ぶれをやり、勝負検査役の採点を受けた。

 顔ぶれで思い出したが「はばかりながらみょうにちの取組をご披露つかまつりまーす。○○に△△…」と、結びの一番まで披露して最後に、私の場合なら「右あいつとめまするあいだ、みょうにちも早朝よりお出でをお待ちたてまつります」といったものだ。

 しかし最近は、序ノ口の相撲がはじまるのが十一時ごろということで「早朝より」が「みょうにちもにぎにぎしく」に変わっている。

 そしていちばんあとを、庄之助は「ご来場をお待ち申しあげます」伊之助は「ご来場をあい待ちたてまつります」与太夫は「ご来場のほどお待ち申し上げます」といい、錦太夫は私と同様、「お出でをお待ちたてまつります」と結んでいる。

 この合併で、仲の良かった呼出し太郎さんとも再び一緒になれたし、昔の仲間である行司も東上してきた。

 先輩の十三代玉之助、清之助、同輩の玉光(のちの十六代玉之助)後輩の正直(のちの二十三代庄之助)金吾(のちの二十五代庄之助)滝夫(のちの木村校之助)らである。

大阪横綱宮城山が優勝

 二年一月場所は、大阪上がりの力士ほとんどが負け越したなかで、宮城山ひとり大活躍、横綱常ノ花に負けただけの十勝一敗で、みごとに優勝してしまった。

 八日目に右差しにこだわって常ノ花に突き倒されたほかは、関脇常陸岩を右差し、左から攻めて一気に寄り切り、玉錦を寄り倒し、大関大ノ里を押し出し、小結出羽ケ嶽を左から渡し込み、小結山錦を突き放し、千秋楽には若常陸を押し倒すという堂々たる優勝だった。

 宮城山は岩手県西磐井郡山ノ目村(現一関市山ノ目町)の生まれ。一七五センチ、一一三キロ。やわらかい体でキビキビした相撲、右差しの寄りと、つり、投げで、大正六年夏、大関、十一年二月に吉田司家から横綱を免許された。

 野球、水泳、玉突き、踊り、囲碁、将棋、清元、常盤津がうまく、相撲甚句、安来節をレコードに吹き込んだこともある多趣味な器用人。バクチがまた大好きだった。

 全盛期は確かに強く、大阪時代はほとんど無敵だったようで、合併直後は相当に働いた。東京の横綱、大関の力はないとしても、関脇か小結くらいの実力があり、三年十月の広島場所でもう一度優勝している。
 しかしその後は次第に弱くなり、横綱のくせに勝ち越すことさえ難しくなってくる。東京で横綱になったのではなく、弱い大阪相撲で横綱になったのだから、力が落ちればそうなることはわかりきっているのだが、本人はなかなか引退しない。

 昭和五年ごろ、太郎さんが「関取! もう引退したらどうかね。土俵入りが恥ずかしいだろう」というと「とんでもない。わしは相撲が大好きだから取っているんだ。
 好き好んで東京の横綱やってるんじゃない。平幕でも十両でもいいんだ。まだまだやめないぞ」といったという。
 四年にはいってからは、一勝四敗六休み、二勝二敗七休み、三勝三敗五休み、八勝三敗、六勝五敗、五勝六敗、六勝五敗、一勝六敗四休み、五勝六敗とさんざん。六年一月場所限りで、ついに引退した。

 平幕あたりで取っていればまだまだ相撲を楽しむことが出来たろうに、ある意味では合併の犠牲者といえるかもしれない。
 合併後の成績は出場十七場所で勝率五割六分六厘。むろん現在までの横綱力士中最低の成績である。白玉から芝田山となり、勝負検査役にもなったが、十八年、高知市で亡くなった。
 
東京場所と関西本場所

 東西合併の結果、昭和三年から、一月、五月の東京のほかに、三月と十月に、関西でも本場所を興行することになった。
 第一回の関西本場所は、大阪(上本町六丁目)で晴天十一日間行われたが、このときは東京の番付をそのまま用い、その成績は五月の東京本場所には影響させず、この成績で次の関西本場所の番付をつくる。そして、東京は東京だけの成績から次の東京の番付をつくることになった。

 つまり、昭和二年五月は一月の成績により、三年一月は二年五月の成績により、三年五月は一月の成績によって番付がつくられ、二年十月の京都場所(八坂新道特設相撲場)は三月の大阪場所の成績により、三年三月の名古屋場所(大池町仮設国技館)は二年十月の京都場所の成績によって番付が作成された。

 しかし、この方式は次第に大きな矛盾を生んでいく。汐ケ浜に至っては、二年一月と三月には東十両四枚目だったが、東京場所ではずっと負けがこみ

 二年一月 東十両4枚目 二勝四敗
   五月東十両12枚目 二勝四敗

 三年一月東幕下7枚目 一勝二敗三休
  五月 西幕下16枚目 二勝四敗

 このままでは四年一月には幕下下位まで落ちなくてはならないのに、逆に関西本場所には強く
 二年三月東十両4枚目 六勝五敗
  十月 西十両3枚目 八勝三敗

 三年三月には東幕内十一枚目に入幕してしまった。
 三年一月は幕下、三月は幕内、五月はまた幕下で相撲を取ったわけ。三年三月場所には三勝八敗と負け越したが、これまでの方式で十月の番付をつくれば十両上位となるはずだった。
 これではだれもが戸惑ってしまう。

 汐ケ浜ほどでなくとも、東京と関西の地位に開きの出る力士が次第に増えたことから、三年十月の広島場所(西練兵場仮設国技館)は五月と同じ番付とし、四年一月の東京場所は、三月、五月、十月の三場所の成績を考慮して作成することになった。

 以後は、東京、関西の二場所を通算して次の東京場所の番付をつくり、関西本場所は東京と同じ番付で相撲を取ることになったのである。

制限時間や土俵の拡大

 関東大震災の痛手もあり、大正末から昭和のはじめにかけての大相撲は相当な不景気だった。東京相撲は大正時代の大阪相撲にくらべればかなりましだったが、それでも地方巡業があまり売れず、本場所もさじきががらあき。

 二十軒のお茶屋も閑古鳥が鳴き「能代潟後援会」とか「外ケ浜後援会御案内」といった立て看板がちらほら立っていて、後援会総見の日には、紋付き羽織はかまの関取衆がさじきへあいさつにきてサービスしているのが目立った。
 不景気対策もあったのだろう、当時、いくつかの制度上の改革があった。

 ▽大正十五年十月不戦勝制度の内規ができる。
 それまでは、相手力士が休場すると元気なほうの力士も休みになってしまい、休みは勝ちではないが負けよりはましなところから、勝ちみが薄いとなると、休んでしまう力士がいた。

 そこで、大阪で行われた三度目の資格審査の相撲から、休場力士は不戦敗、出場力士は不戦勝とすることになった。

 しかし、その後二、三年はこの制度が徹底せず、昭和三年一月場所、大関常陸岩が十勝一敗で優勝したとき、十勝の中に西ノ海からの不戦勝が含まれているから幕じり二枚目で十勝一敗の三杉磯を優勝者とすべきだという意見も多く、

 結局、優勝額は常陸岩だが、三杉磯も優勝と同待遇とし、福田協会会長の名で優勝の化粧まわしをもらってようやくケリがついた。

 そんなことがあって、三年三月、大正十五年十月の不戦勝の内規を徹底させ、幕内以下全力士に適用、不戦勝力士も土俵上で勝ち名乗りを受けることに決まった。

 ▽昭和三年一月、NHKラジオ実況中継 開始にともない、仕切りの制限時間を設け、幕内十分、十両七分、幕下五分とし、仕切り線を設定することになる。

 制限時間ができたことで、それまで仕切りが長いので有名だった出羽ケ嶽などは、以後ずいぶん取りにくかったらしい。
 横綱西ノ海もなかなか立たない力士で、十分の制限時間がきても立てず、協会から大目玉を食ったことがあったと記憶する。

 仕切り線が出来るまでは、常陸島のように俵に足をかけて遠くで仕切る力士もいた半面、土俵中央で頭と頭をくっつけ合って仕切る力士が多かった。
 真鶴など、頭をつける仕切りでなくては相撲が取れない人だったようで、しばらくは取りにくいとずいふんこぼしていたようだった。

 ▽五年五月、四本柱を背にして土俵上に 座っていた勝負検査役が、夏場所から土俵下へおり、従来の四名に、取締一名が 検査長格で加わり、五名となる。

 ▽六年四月二十九日の天覧相撲を機に、以後、土俵の直径十三尺(三・九四メートル)を十五尺(四・五五メートル)に、二重土俵を 一重に改めた。

 土俵が広くなったことで、若葉山、山錦、巴潟といった押し相撲は明らかに不利となったが、われわれ行司は、二つの改革で動きにかなり余裕が出て楽になった。

 四本柱の前に検査役が座っていた時代はその前に立つことは許されず、二重土俵の間は蛇の目だから、
 ほとんどは十三尺の狭い土俵の中だけで動き回っていなければならなかったが、検査役が下へおりると、観客のじゃまにならない四本柱の前に立つことができるし、

 十五尺に土俵が広がり、一重土俵になってさらに動く範囲が広くなって、裁きやすくなったのである。

須田町でミルクホール

大正十三年春場所が、はじめて東京をはなれて地方の名古屋で行われたことはすでに述べたが、その相撲場のすぐそば、中区大池町の待合「菊月」で、いまの女房智恵子を知った。私が数え三十五歳、家内が二十一歳のときだった。

 一年ほどつき合ってから”結婚しよう”という気になり、両国の出羽海さんに相談にいくと、まだ東京にきてから間もないし嫁をもらうのは早い、もう少し待てといわれたので、その後もつき合いをつづけ、正式になったのは昭和三年だった。

 結婚後も私は両国で二階借りをして、女房は名古屋に置いてあったが、子供ができたので東京で一緒に住もうということになった。しかしこのままでは所帯持っていかれない。そこでなにかいい商売でもないかと毎日考えていた。

 昭和四、五年の話である。当時は、給金も安く、相撲だけではやっていけず、親方衆もたいていはほかに商売をやっていたものだった。
 ある日、私が神田の須田町を歩いていると大工さんたちがタバコをすっている。

 「ここらでミルクホールでもやりたいと考えているんだが適当な家はありませんか」と相談してみたら、その家の人が「そうですか。それじゃあここは角店だし、よろしい、ここでおやんなさい」ということで、すんなりと話がまとまってしまい、早速そこを借りてミルクホ一ルをやることになった。

 いま息子(雄介氏=(49))が〃庄之助最中〃をやっている場所である。
 すぐに女房を呼び、開店のはこびとなったが、コーヒー、紅茶、ポートラップがすべて十銭、最高にはいって二十人ぐらいのこぢんまりした安直な店だった。

 横綱常ノ花関の骨折りで、幕内一同よりと書いた大きな鏡を二つちょうだいし、それを飾った。当時はどこにもチンピラがいて、こういう店をやる人たちはずいぶんと悩まされたものらしいが、この鏡のおかげか、私の店ではそうした問題は一度もおこらなかった。

 その後、私たちはずっと、三十年に両国へ移るまでここに住んだ。
 伊之助になったときも庄之助になったときも「番付会議の席上で満場一致で推薦されましたので、お知らせします」という使者が来たのは、このミルクホールだった。

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読売新聞社 大相撲 1979年5月春場所総決算号


さし絵 伊藤豊一画