二十二代庄之助一代記〈第十二回〉

泉   林 八


〃どん底〃からの脱出
 春秋園事件の結果、お客の入りは激減、関東大震災当時からの借財に加えて、協会は文字どおり〃どん底〃に落ち込んだ。

 藤島新取締(元横綱常ノ花)が、入間川さん(元幕内格行司木村宗四郎)にかわって事業部担当になったが、窮余の一策として、協会から各部屋に渡す金にかえて、一時的に協会員のみに通用する金券を発行したりもした。

 両国国技館を、本場所開催時以外に空けておくのはもったいないと、各新聞社の後援によってニュース映画を上映したり、拳闘(ボクシング)試合を興行したり、その後は、夏は満州博覧会、秋は菊人形大会と、いくらかずつでも利益をあげ、前に発行した金券も徐々に回収されていった。

 七年十月、玉錦が横綱を免許され、八年春場所からは、宮城山の引退以来、二年間みられなかった手数入りがみられるようになり、七年暮れには革新、新興の両派からの帰参が決まり、一挙に土俵も充実してきた。

 昭和八年春場所の幕内番付は次の通り。
   東       西
 横綱 玉 錦

 大関 清水川 大関 武蔵山
 関脇 沖ツ海 関脇 高 登

 小結 能代潟 小結 幡瀬川
 前頭 大邸山 前頭 出羽ケ嶽
 二瓊ノ浦   二若葉山

 三古賀ノ浦  三旭 川
 四大 浪   四大 潮
 五双葉山   五吉野山

 六土州山   六筑波嶺
 七吉野岩   七巴 潟
 八越ノ海   八若瀬川

 九射水川   九岩城山
 これに、別番付として「綾桜、鏡岩、朝潮、和歌島、太郎山、新海、高ノ花、錦華山、宝川、灘ノ花、海光山、外ケ浜」(以上幕内格)「金湊、銚子灘、太刀若、番神山、綾昇、楯甲、磐石、綾若」(以上十両格)ら帰参組がついたわけである。

 この場所は、帰参組の朝潮が、師匠高砂への遠慮から、朝潮のシコ名を返上して男女ノ川に戻り、横綱玉錦以下、東西の三役を総ナメにして十一日間全勝、みごと優勝額を掲げた。

 十両もまた、帰参した番神山と綾昇が十勝一敗の好成績をあげ、両者の地位がともに十両格というだけなので、当時は同成績者がある場合は上位優勝であったが、この場合、優勝決定戦を行って綾昇が優勝した。

 この場所あたりから、客の入りも、五、六年と同程度に戻り、十年夏場所後、武蔵山が、十一年春場所後に男女ノ川が、それぞれ横綱になってさらに盛り上げた。

 しかし、強い玉錦にはそれほどの人気がなく、人気のある武蔵山、男女ノ川は横綱になってからはパッとせず、八年九月三十日、
 大関目前の沖ッ海が、山口県萩の巡業先で、フグ中毒のために二十三歳の若さで亡くなり、爆発的な人気とはとてもいえなかった。

 武蔵山という人は、若いころから将来の横綱といわれ、一八五センチの長身、筋肉質で腕っぷしが強く、足腰もいい。右四つだったが、ハズ押しもあり、投げも強いといったふうで、横綱になるまでは弱くはなかった。

 しかし、小結から大関になる直前の六年十月の大阪場所九日目、沖ツ海に左四つの熱戦からすくい投げを食った相撲で右腕を負傷、
 それが横綱に昇進してさらに悪化、横綱としては全くいいところなしに終わってしまった。

双葉山の連勝で超人気
 十一年夏場所には、新関脇双葉山が初優勝をとげた。

 当時の記録をみると、新海を上手投げ、両国を上手投げ、駒ノ里を下手投げ、笠置山を下手投げ、出羽港を寄り切り、小結綾昇を上手投げ、玉ノ海を寄り切り、関脇鏡岩をうっちゃり、

 九日目には、全勝同士の対決に横綱玉錦を寄り倒し、そのあとも、横綱男女ノ川をすくい投げ、大関清水川をうっちゃって、みごと全勝している。

 当時の双葉山は、身長一七八センチ、肩幅が広く胸が厚く、腹はまだあまり出ておらず一○五キロぐらい。二枚腰といわれるほど下半身が強く、男っぷりもよかったのでものすごい人気になった。

 そして同じ年の十月九日から十一日間、大阪準場所が、北区堂島大橋北詰空き地で松竹興行主催によって行われた。
 元横綱大錦が骨を折り、さすが宣伝じょうずの松竹が主催だけに、道頓堀に大きな看板をあげたりして、もちろん新大関双葉山の人気もあろうが、宣伝のうまさもものをいってすばらしい人気となった。

 この場所は、玉錦が貫録を示して十一戦全勝で優勝、双葉山は玉錦に負けただけの十勝一敗で準優勝だった。このあたりから大相撲の人気はウナギのぼりに上昇。

 十二年にはいると、谷風−小野川時代、梅・常陸時代に匹敵するといわれる黄金時代に突入したのである。
 その後、双葉山は、まるで負けを知らなくなった。十二年春、十一戦全勝、同夏、十三戦全勝。そして新横綱として登場した六月の大阪準場所で、初日綾川、四日目和歌島に敗れたときは大変なさわぎが巻き起こった。

 結局上位には負けずに十一勝二敗となったが、準場所で負けても号外が出るさわぎになったのである。
 この場所は、大阪旭区(現城東区)関目に国技館が落成したのを記念して開催されたが、綾昇が十二勝一敗で優勝、大阪国技館に初の優勝額を掲げる栄誉を獲得した。 それからあとはもう準場所でも負けなくなった。

 十二年七月の名古屋準場所、十一戦全勝、十一月の大阪準場所、十三戦全勝、十三年春場所、十三戦全勝、二月の名古屋準場所、七戦全勝、

 四月の大阪準場所、十三戦全勝、十三年夏、十三戦全勝、六月の名古屋準場所、十三戦全勝…。
 このあと、
 朝鮮(現韓国および北朝鮮)満州(現中国東北地方)巡業が行われ、七月十日の釜山を振り出しに、各地を回り、九月はじめに帰国したが、この間にアメーバ赤痢にかかり、九月の大阪準場所は全休した。

 結局、十四年春場所四日目、一月の十五日、日曜日、初顔の新鋭安芸海のために七十連勝目で敗れたわけだが、このときのさわぎについてはあとで書こう…。

天竜一派肥州山らが帰参
 十二年になると、天竜一派の関西相撲協会は、東京協会の人気上昇に圧倒され、また日中戦争の時局も考えて、解散の腹を決め、十二月五日に、大日本関西相撲協会の解散と、東京相撲に伍してそん色ない力士を東京相撲に合流することを決め、発表した。

 大正はじめ大阪相撲の竹縄部屋に、白梅久満吉という十両力士がいた。この力士は九州宮崎の延岡出身で、大阪へ来る前、東京の出羽海部屋にいて日向灘といった。

 この男は親分ハダで、廃業後は若松(現北九州市若松区)にいて、のち延岡に帰って窒素会社の請け負いをやっていた。

 この白梅が、出羽海部屋時代に天竜さんと知り合いだった関係で、天竜さんの依頼によって、藤ノ里、大和錦、肥州山らを出羽海部屋に連れてきた。

 そして十二年の秋に、両国の出羽さんが、各親方衆、関取衆と相談の上、それまでのことは水に流して出羽海部屋に受け入れようということになり、手打ち式が行われた。

 両国の出羽さんは、これで部屋の勢力も元通りになるということで大変に喜び、白梅に引き出物として清水次郎長の刀を贈った。

 そして天竜一派は、十三年春場所から東京の相撲に復帰したのだが、脱退のとき、幕内五枚目の藤ノ里は十両五枚目格、幕内六枚目の大和錦は十両七枚目格、

 幕内十枚目の肥州山は十両十二枚目格、十両八枚目の倭岩は幕下七枚目格、幕下十四枚目の松ノ里は三段目筆頭格、幕下三十一枚目の十三錦は三段目二枚目格へと、それぞれ降格して番付外に付け出された。

 関西協会へ入門した桜錦、葵竜(のち駿河海)らは幕じり格付出し。

 また、十三年一月二十二日に師匠大ノ里が満州大連で亡くなったあと、故郷青森へ納骨のために帰っていた元十両で、脱退時幕下十八枚目の武ノ里、関西協会へ入門の陸奥ノ里は、夏場所、幕下じりに付け出され、再出発した。

十五代目木村玉之助に
 私は、七年春場所に三役格へ昇進していたが、十一年春場所から、木村林之助の名を木村容堂と改めた。
 この名は、私が当時、土佐の山内容堂侯にあこがれていて、木村の下に容堂と続けると姓名判断の字画からもすばらしくいいことがわかったので、両国の出羽さんにお願いして改めたものだ。

 出羽さんもはじめは「そんな大それた名前をつけて、表札にでもあげておけ」といっていたが、結局は許してくれた。

 この名は確かに緑起がよく、その後の私はトントンと出世した。
 錦太夫、与太夫、勘太夫などといった由緒ある名でなく、容堂はこれまでに全く私一人の名である。 十四年春に、十五代目木村玉之助を襲名した。

 このときは順番からいえば清之助さんがなるところだったが「私はもう年もとっているし、上はのぞまない。私は遠慮するからあんたが玉之助になってしっかりやってくれ」といわれ、私が襲名した。

 清之助さんは、声もよく、かなりうまい行司だったが、年がいきすぎているところから、三役格あたりで気楽にやりたいということで後進に道を開いてくれたわけである。

 玉之助になると、立行司だから、吉田司家の故実門人となり、土俵祭を主催することができる。

 私はさっそく十四年春場所の初日の前日、土俵祭を行ったがこのとき、なかなかいい土俵祭だったということで、司家の顧問である徳永為次氏から次のような書をいただいた。
 衣冠束帯悉行司 修地祭神則古儀
 清酌諸差開直会 諫鼓一斉轟方達
詠方屋祭博木村玉之助君 司家顧問陵東「衣冠東帯ことごとく行司、地を修め神を祭り古儀にのっとり、清酌諸差(神酒とお供物)直会を開き、諫鼓一斉方達(四方の町々)に轟く」と読む。
 陵東は徳永氏の号

 玉之助はもともと大阪立行司の家で、大阪協会が東京と合併したとき、名家として東京でも立行司の列に加えられることになった。

 初代は寛政三年(一七九一)木村槌之進から玉之助になった、俗にいう〃槌之進玉之助〃であり、二代が寛政八年、寅之助から襲名の玉之助、三代が享和三年、庄太郎からの玉之助。

 以下、文化十一年、天保三年、嘉永四年、明治元年、そして八代が十六年、槌之進からの玉之助、私が大阪相撲に入門したころの玉之助は、三十年に重政から改めた九代目であった。

 十代目は、広政から重五郎を経て三十六年五月に襲名。十一代目は私の思師というべき人で、正直から四十五年五月に襲名、大正五年一月には木村越後となった。

 十二代目は吉岡一学から、大正五年一月に襲名。そして十三代目が、木村晴彦から十一年五月に襲名、東西合併のときにやってきた玉之助である。

 東京時代になって、昭和十三年春、勘太夫さんが十四代目玉之助となり(のちの二十一代庄之助)、私が十五代目という順序となる。

十八代目式守伊之助襲名
 十五年夏には式守伊之助となった。私は十八代目である。

 初代伊之助は、木村家の家伝によると、四代目庄之助の門人で、庄之助から「木村の式を守れ」といわれて”式守”の姓をもらい、初代式守伊之助が誕生したことになっている。

 初代伊之助は寛政五年に引退して、式守蝸牛を名乗り、有名な「相撲隠雲解」をあらわした。
 二代は初代の弟子で、初代与太夫から文化十一年春に襲名。三代も初代の弟子で、卯之助から文政三年春に襲名。

 四代は二代の息子で、二代目与太夫から天保五年冬に襲名。五代は三代の弟子で、初代勘太夫から天保十年春に襲名。

 六代目も三代目の弟子で宮城の人、二代目鬼一郎から嘉永六年冬に襲名。七代目は五代の弟子で鬼一郎から明治十六年春に襲名。八代目は六代目の弟子で岩手の人、三代目与太夫から十七年夏に襲名。

 九代目は栃木の人で八代の弟子、四代目与太夫から三十一年夏に襲名。十代目は徳島の人で大阪相撲竹縄部屋から東京の玉垣部屋、のち友綱部屋に移り、庄三郎から四十四年春に襲名、のちの十七代庄之助。

 十一代は京都相撲からきた人で、吉岡一学の養子となり、のち東京へ加入、木村進から四十五年夏に襲名。

 十二代は十三代庄之助の弟子で愛知の人、二代目誠道から大正四年春に襲名。十三代は九代目の弟子で東京生まれ、六代目与太夫から大正十一年春に襲名、のちの十九代庄之助。

 十四代は八代目の弟子でこれも東京の生まれ、勘太夫から十四年暮れに襲名して十五年春の番付にのっているが、その前の十四年十二月二十六日に亡くなったので、伊之助としての土俵は一度も踏まずに終わった。

 十五代目は八代の弟子で養子、栃木の人で、七代目与太夫から十五年夏に襲名、のちの二十代庄之助、松翁である。

 十六代目は山形の人で九代目の弟子で養子、八代目与太夫から昭和八年春に襲名、伊之助のまま引退して年寄立田川となり、協会理事をつとめた。

十七代目は長野の人で、山響の養子となって伊勢ノ海部屋にはいり、十四代目玉之助から十四年春に襲名、のち二十一代庄之助から、年寄立田川をついで、協会理事、監事の要職を歴任した。

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読売新聞社 大相撲 1979年9月名古屋場所総決算号


さし絵 伊藤豊一画