二十二代庄之助一代記〈第十三回〉

泉  林 八


双葉山敗れて大さわぎ
 昭和十四年春場所四日目、一月十五日の日曜日、やぶいりの日に当たっていたが、六十九連勝を続けてきた横綱双葉山が、出羽海部屋の新鋭安芸海のために一敗地にまみれた。

 この場所前、刀根さんの十六代伊之助が引退して年寄立田川になったため、竹内さんの玉之助が十七代伊之助になり、私が十五代目の玉之助を襲名した。

 この日の取組をみると、最後のほうは
(木村玉二郎)
小島川−和歌島
両 国−羽黒山
(木村清之助)
玉ノ海−駒ノ里
竜王山−名寄岩

(木村玉之助)
綾 昇−旭 川
磐 右−前田山
(式守伊之助)
鏡 岩−笠置山
安芸海−双葉山

(木村庄之助)
鹿島洋−男女ノ川
 となっていたから、私は、綾昇−旭川と磐石−前田山の二番を裁いたことになるのだが、当時の記憶がまったくない。
 ただ、問題の一番の取り口だけははっきりと覚えている。
 安芸海が右四つで両まわしを取って食い下がり、十分の左上手を引けない双葉山が強引な右のすくい投げから、さらに反り身になって下手投げにくるところを左の外掛けで倒したのである。

 そうした取り口経過は、あれから四十年たったいまでも、私のマブタの奥に焼きついてはなれない

 普通だったら私は行司部屋に戻っていたことになり、この相撲を直接みていなかった可能性のほうが強い。花道あたりでみていたとしても、座ぶとんやタバコ盆が雨のように降ったという記憶がない。

 あまりの驚きに取り口以外を全く失念してしまったのか、あるいは、あとで何回かみた映画の記憶を、本当にみたものと錯覚しているのかもしれない。

 あの手さばきをみては天下一品といわれた彦山光三氏でさえ、安芸海の左外掛けを右の外掛けと間違うほど興奮させた大一番だったのである。

 大変なさわぎになった。勝った安芸海は興奮の極に達した万余の観衆に囲まれて身動きがとれず、

 国技館から、千葉街道(京葉道路)を渡って隅田川の両国川の川っぷちにあった出羽海部屋まで、普通なら二、三分でつくところを、三十分かかったという。

 安芸海は、この相撲一番で一躍英雄に祭りあげられ、この白星で自信をつけたせいだろう、急速に強くなり、ついに横綱にまで出世した。

 安芸海は、突っ張りがあって前さばきがよく、左差しで頭をつけ、右からしつこくしぼって攻め込む正攻法の取り口、一番相撲の名人といわれ、キビキビして激しくてきっぷのいい力士だった。

  非力でマラリアがときどき出たために全盛期は短かったが、かなりの強味を持っていた。
 いまの三重ノ海と取り口がよく似ているが、安芸海のほうが動きが鋭く、もっともっと早かった。

双葉めぐる思い出の三番
 双葉山にはそのあと八回戦ってとうとう一度も勝てなかったが、十六年春場所十四日目の相撲はすばらしかった。

 その日までともに十二勝一敗の好成績で対戦したが、安芸海が突っ張って左を差し勝ち、右からおっつけて上手を浅く引きつけ、頭をつけて寄り進んだ。双葉山は右上手は取ったが深く、十分の左を殺されて後退。土俵際で踏ん張って、まず右へうっちゃりにかかった。

 ここで安芸海はとっさに右の外掛け。双葉山はさらばと逆に左へうっちゃった。
 庄之助のうちわは双葉山にあがり、物言いがついて取り直しになったが、伊之助として控えでみていた私は安芸海にだいぶ分のいい相撲とみた。

 取り直しの相撲も大相撲になり、結局は右四つ十分に組み勝った双葉山が勝ったがとにかくカのはいったいい相撲だった。あれだけの相撲は当時でも滅多になかったし最近ではもうまずみられない。

 安芸海の攻めもみごとだったし、逆のほうへうっちゃり直した双葉山の足腰は、あれこそ二枚腰というものだろうと感心させられた。

 双葉山をめぐって、思い出深い相撲がもう二番ある。

 昭和十五年春場所十一日目、九勝一敗と好調の平幕筆頭五ツ島が、全勝の横綱双葉山に挑戦したが、激しい突っ張り合いから双葉山が左から引っ張り込んで左上手をねらうのを五ツ島がきらって突き放し、
 双葉山がようしそれならばと勢い込んで突っ張って出ると、後退した五ツ島は土俵際で右胸を出して受け止めるとみせて、さっと左へ変わり、左からはたいた。

 非常にタイミングのいいはたきで、普通の力士ならバッタリとのめって両手をつくところだが、双葉山はさすがに二枚腰だ。

 腰が完全に割れているので簡単にバタッとはいかない。じわじわっと…結局は四つんばいにはなったけれども、いかにも格好のいい倒れかただった。
 筆や口では説明しにくいが、実にみごとな負けっぷりで、その落ちていく姿がいまでも私の目に浮かんでくる。

 もう一番は、十八年春場所十四日目の対照国戦だ。
 照国は新横綱の場所で、両力士とも前日まで十三戦全勝だった。照国が突っ張りから左四つに組み勝って互いに両まわしを引き合い、投げ、ひねりの応酬から、水がはいる大相撲となった。

 水入り後も、投げ合い、寄り合いから、照国が上手投げにいってやや体勢が起きるところ、双葉山が腰を割り両まわしから引きつけ、腰をつきつけて、じりっじりっと寄った。

 照国は重くて柔らかい腰でこらえ、うっちゃろうとすると、双葉山はあわてず腰を下げ、両まわしをはなして上体の力を抜き、右手で胸を押してゆっくり寄り倒した。

 まさに盤石の詰め、横綱相撲だった。双葉山という人は、勝っても負けてもゆうよう迫らず、落ち着きはらって常に貫録十分だった。
 そんきょなども、ヒザが自然にゆとりをもって真横に開き、実に格好がよかった。双葉山こそ真の横綱といえるだろう。

 引退から五年以上たった二十五年秋場所後の花相撲で、当時全盛期の小結若瀬川と対戦、右四つからの左上手投げで豪快にたたきつけたが、

 あざやかなものだった。年寄に負けてはと、若瀬川も必死の形相でぶつかったが「あっという間にやられてしまった」とくやしがっていたものだ。

 常陸山や太刀山は別として、私がじっくりとみた横綱の中で、横綱中の横綱といえば、なんといっても栃木山と双葉山だが、強いといえば栃木山で、安定感では双葉山だった。

 栃木山は、前にも書いたが、四斗俵(六ニキロ)を、右手一本で、ヒジも曲げずにひょいと持ち上げる怪力で、右腰をいれて右からしぼると、にぎりこぶしを返した左腕に、相手力士がのっかってしまうほどの強さだった。

 双葉山には、栃木山ほどの力強さは感じられなかったが、どこからかかっていっても動かないような安定感があった。まさに無敵横綱であった。

双葉山時代の〃超〃人気
 昭和十一年から、朝鮮(韓国、北朝鮮)満州(中国東北地方)支那(中国)巡業が行われるようになった。

 釜山−馬山−大邸−大田−群山−京城−仁川−沙里院−平壌(以上朝鮮)
−安東−鞍山−旅順−大連−営ロ−遼陽−撫順−奉天−四平街−新京−吉林−ハイラル−チチハル−ハルピンー東安−牡丹江−図門(以上満州)

−羅南−清津−羅津(以上朝鮮)と回って船で新潟へ戻ったり、中国を、青島−済南−天津−北京−張家ロ−大同と歩いたり、
 上海−杭州−南京−安慶と巡業したこともあった。

 十六年から十八年までの三年間は「安東(初日〉鞍山(二〜三日目)奉天(四〜八日目)ハルピン(九〜十日目)新京(十一〜千秋楽)」と、十五日間の満州移動準本場所を行い、大変な人気だった。
 十六年から十八年までの大陸巡業で強くなったのが東富士だった。

 十六年は幕下上位で優勝したあとだったが、毎日双葉山を一時間以上あんましたあとで、関脇名寄岩と二十番くらいの三番げいこをやった。

 十七年、十八年もこうしたけいこが続いたが、十七年になると、十両の東富士に新大関の名寄岩はほとんど歯がたたないほど東富士は強かった。

 親方衆も私たちも、当時は双葉山のあとつぎは東富士だと確信したし、双葉山もそう思ってけいこをつけたのだろうが、横綱になり、弱い横綱ではなかったが、栃木山や双葉山級の大力士にはなれなかった。

 これは、二十一年の夏巡業に、安芸海・東富士一行で東北地方を回ったとき、秋田県十文字町のけいこ中に、柔らかすぎる土俵に足をとられて右足首を骨折、脱きゅうし、その辺の医者の誤診と、その秋場所に無理やり出場させられたのがたたったのだという。

 大相撲界にとって大きな痛恨事ではあった。
 十二年ごろから十八年ごろにかけての大相撲人気は、それこそ爆発的人気とでもいうのだろうか、二万人はいる両国国技館がたいていは、超満員。

 前日の打ち出しごろにはもう翌日の入場を待つ観衆が並んでいる。あまり人数が多いので、前夜の九時、十時に開場することもたびたび。

 十四年夏場所初日など、前日の午後三時半に開場したという。
 前夜のうちから国技館内に五千人の客がひしめき、午前五時に木戸止めなどということもあった。

 巡業の人気もすごかった。どこへいっても超満員になる。
 しかし、戦争が終末に近づいてくると、いわゆるもうけ主義の興行はほとんどできなくなり、巡業といえば軍隊や工場の慰問相撲なので、私たちの収入のほうはさっぱりだった。

 大相撲黄金時代とはいえ、私たちは常に食べることだけにせいいっぱいで、いつもピーピーしていたのである。

後楽園球場で晴天十日
 十九年二月、両国国技館を風船爆弾工場に使用するということで、軍部のために接収された。したがって、十九年春場新を最後に、両国国技館はもう使用できなくなってしまった。

 十九年にはいると、巡業は完全に慰問相撲だけになり、大陸巡業は不可能となり、決戦非常体制になってきた。
 十九年夏場所は、久しぶりに両国をはなれて、小石川の後楽園球場において”晴天”十日間の本場所が挙行された。

 といってもここでやるのは十両以上だけ、正午から午後四時までの四時間に限られた。また、警報発令などのため、千秋楽が結局、予定より七日も延びた。

 私事で恐縮だが、このとき私は大変な損をした。十九年春場所までは、当時の番付をみていただければわかるが、一場所に十二人の年寄が勧進元になって、利益の一部を分配していた。

 そして、十九年夏場所がちょうど、私が年寄としてはじめての勧進元の順番に当たっていたのである。

 しかし、戦時体制にはいり、入場料金も安くおさえることになり、夏場所からは、すべて本場所は、大日本相撲協会が主催することに変わってしまい、私の勧進元の夢は永久にお流れになってしまったのである。

 野外の晴天興行では、寒い一月に興行することはできない。
二十年春場所のかわりに、十九年に秋場所をやってしまおうということになり、再び後楽園球場で開催したが、十一月五日初日のつもりが空襲などのために十日初日となり、この場所も予定より七日遅れの千秋楽となった。

 秋場所は、夏以上に戦時色が強まり、力士も見物人もほとんどが鉄カブトを背負ってやってきた。そうしたときでも、六万人の大観衆が集まることが何度かあったのだから、大相撲の人気は一向に衰えを知らなかったことになる。

両国相撲村は焼け野が原
 昭和二十年になると、もはや相撲どころではない。力士はあちらこちらへ勤労奉仕にいき、ほかには、たまに頼まれて慰問相撲があるだけだ。
 三月十日は、世田谷の等々力で、安芸海、汐の海、増位山、豊島一行の慰問相撲をやることになっていたが、九日の夜が、例の東京大空襲だ。

 私の家は神田須田町にあり、災難は被らなかったが、周りは完全な火の海となり、一夜のうちにあたり一面が焼け野が原となってしまった。

 これでは慰問相撲どころではあるまいと十日の早朝、須田町から両国へ向かって歩いていった、そこら中すべてがまる焼けになり、ブスブスくすぶっている。

 両国橋を渡ると左側の出羽海はむろん全焼、右側の両国国技館は鉄骨だけはそのままだが、中身はこれまた全焼、カドにある相撲茶屋の高砂家が燃えている最中だった。

 両国から一之橋を渡る手前を右にはいったところにある安芸海のもとの家が焼け残ったので、出羽海部屋の連中はここに集まっていたが、そこで、豊島、松浦潟、年寄西岩(元射水川)が焼死したのを知った。
 焼けただれた国技館の中にある協会へいってみると金庫だけは無事ということで、藤島さん(のち出羽海、元横綱常の花)が年寄に千円、幕内力士に五百円を渡していた。

 両国の部屋や家がすべて焼けてしまってはどうしようもない。疎開するものは疎開するし、呼び出しをかけるまではこのカネでなんとか食いつないでくれというわけである。

 当時伊之助は年寄名跡だったから、私も千円をちょうだいした。
 その後、私と家内と下の子供は世田谷の奥沢に移った。

 上野という海軍大佐が新潟へいっているので、二百坪からある家がガランとしていて「式守さん、なにもいらないからぜひ泊まっていてください」ということで、ごやっかいになっていた。
 長男は焼け出された親せきと須田町の家にいた。

 二十年夏場所は、明治神宮外苑相撲場で晴天七日間行うことになり、五月二十五日が初日と決まった。
 この日私は立行司式守伊之助として土俵祭の祭主をつとめることになっていたが、あいにく電車が動いていない。

 仕方なく奥沢から神宮まで十五キロの道を三時間かけて汗だくになってたどり着き、なんとか土俵祭はすませたが、空襲のために午後の取組は延期となり、
 同夜、東京山手の大空襲で明治神宮も被災し、ついにこの相撲は中止となってしまった。

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読売新聞社 大相撲 1979年11月秋場所総決算号


さし絵 伊藤豊一画