二十二代庄之助一代記〈第十七回〉

泉  林八


付け人鹿島洋、小野錦ら
 行司も十両格に上がると、大阪でも東京でも、相撲取りの付け人が一人付くようになる。

 大阪ではずっと竹縄部屋の竹響というのが付いていた。
 この力士は、土俵上でシコを踏むときに手の動作をつけ加えるきっかけをつくった昭和戦前戦中の幕下力士、初っ切りの島田川(朝日山部屋)の兄さんだった。
 幕下まで上がったが、私が東京へ移るちょっと前に廃業した。

 東京へきて最初に私に付いたのは、シコ名は忘れてしまったが、大阪相撲の小九紋竜・時津風の先代、片目の時津風親方の息子だった。

 その後、付け人は何人も変わったが、その中で幕内まで出世したのは、鹿島洋と小野錦の二人だ。

 鹿島洋は昭和七年から十一年ごろまで付いてくれた。台湾の台南で生まれ、のち茨城県の大洗に移り、満十五歳のとき、春日野部屋に入門、昭和五年夏、新高山のシコ名で初土俵、八年春に鹿島洋と改名。

 十二年春十両、十三年夏入幕、一七三センチで一三五キロ、右を差して一気に出る威勢のいい取り口で、
 無敵双葉山を二度負かしている。

 二十二年五月五日、広島県高田郡吉田町の巡業先で、満三十一で客死した。

 小野錦は、十五年夏、私が伊之助になったときから、十八年、彼が応召するまで、そして戦後復員してからすぐは陸奥ノ里に付いていたようだが、二十二年からまた私に付き、二十五、六年までと、いちばん長かった。

 大阪市住吉区の生まれで、陣幕部屋にはいって陣ノ花、のち小野川部屋所属となって小野錦と改名。
 十三年夏初土俵、兵隊も長かったし、小兵で非力のせいもあって幕下が長かった。

 三十年初場所、満三十二歳九か月で十両に上がり、三十二年春場所には満三十四歳十一か月で入幕、話題になった。一七四センチで九四キロ、突っ張りからキビキビと暴れまくる取り口で、さっそうとしていた。
 ごく内輪でやった私の米寿の祝いにもきてくれたし「卆寿を祝う会」の発起人代表をつとめてくれた。

 いまは、大阪ナンバ新地四番丁のカブキ横丁で、ちゃんこ料亭「小野錦」を経営している。現三保ケ関部屋の陣ノ花改め芙蓉峰(三段目)はその一人息子である。

 ずっと最近になって、二十六〜八年には津渡改め福ノ島、二十九〜三十一年には浦改め五ツ浦が付いた。
 二人とも長崎県五島の福江出身。福ノ島は幕下上位に長くがん張っていたがとうとう十両に上がれなかった。五ツ浦は幕下下位に上がったところで相撲に見切りをつけ、現在は赤羽駅前で、ちゃんこ料亭「うらしま」をやっている。

 そして三十二〜四年は、北海道生まれの常旭、長崎生まれの五ッ嶽、東京生まれの宮ノ海(以上出羽海部屋)、兵庫生まれの千種川(三保ケ関)らが付いてくれた。
 せっかちでわがままな私に付いて、こまごまと世話をやいてくれた力士たちに誌上を借りて心から感謝したい。

錦太夫、林之助、咸喬ら
 次は弟子たちについて…。
 私がもっとも尊敬し、師事していた松翁の二十代庄之助が亡くなったのは昭和十五年三月九日。そのとき、両国出羽海親方の命令もあって、
 松翁の弟子で養子でもあった二人の行司、木村庄治郎と式守松男を弟子としてひきとった。

 庄治郎はすでに十両格だったが、松男はまだほんの子供だった。
 そしてそのとき、私が十八代伊之助を襲名したわけである。

 庄治郎は、松翁と回じ栃木県鹿沼の出身。式守清から木村清、木村庄治郎と改め、十四年春十両に昇進、十六年春に六代目式守錦太夫を襲名したが、十九年春限りで兵隊にいって戦死してしまった。
 松男は、現八代目式守錦太夫。山形県鶴岡市の生まれ。
 十三年夏初土俵、十六年春序ノ口、式守松尾から松男、式守林之助、木村林之助と改め、三十六年十一月に幕内格に昇進、三十七年一月、錦太夫を襲名、四十九年一月に三役格に上がった。

 はじめからの弟子第一号・式守良太郎は千葉県銚子市の生まれで、出羽海部屋の幕内格行司(のち三役格)木村宗四郎の姉さんの息子。

 十六年夏序ノ口につき、十八年春には序二段格に上がったが、肺を病み、二十年夏限りで銚子へ帰り、一年ほどで亡くなった。

 二号は式守金四郎。松翁と同郷の鹿沼の出身。十八年春序ノ口に出たが、二十年秋限りでやめていった。

 当時の大相撲は本場所の定期開催もままならず、たとえ本場所が開かれてもなんの保証もなかったから、
 本人がやめたいといったら、私の力ではそれを引きとめることはできなかった。

 そこで私の弟子はいまの錦太夫一人になってしまったが、戦後になって式守吉之助(のち木村吉之助)が和歌山市から入門してきた。

 二十五年春序ノ口、二十六年秋序二段に上がったが、母一人子一人で、おかあさんがどうしても手もとにおきたいからと、二十七年夏限りで和歌山へ連れ帰ってしまった。
 もしやめずにいたら今ごろは幕内格に上がっていたかもしれない。

 次の四号が木村徳夫。長崎県五島福江市の出身。三十年初序ノ口、三十一年夏序二段、三十三年名古屋三段目と上がった。
 のちに書くが、三十三年一月、行司部屋が独立して、それまで私の家にいた弟子も含めてほとんどの行司が両国の日大講堂前、茶屋のあったところに合宿した。

 その部屋の管理をしたりめしをたいたりしてくれる夫婦を頼んできてもらっていたが、その夫婦が「庄之助さん、あなたのところの徳夫は毎日のように門限に遅れて困ります」というので、
 なまくら者になっては親代わりの私の責任だから「そんなことを続けていたらろくなものになれんぞ」と相当に厳しくしかりつけた。

 すると、私らになにもいわずにやめていってしまった。三十三年秋の番付が最後だった。いま考えると、もう少しやさしくいってやったら…かわいそうなことをしたと思っている。

 そして五号、六号が、現十両格の木村林之助と木村咸喬ということになる。
 林之助は、佐賀県神崎郡神崎町の出身。大正末の十両力士佐賀ノ山が、三十年春の大阪場所のときに連れてきた。

 木村保之助の名で、三十年夏初土俵、同秋序ノ口、三十三年名古屋序二段、三十五年春三段目、三十六年名古屋幕下、四十一年秋に林之助と改め、その九州に十両格へ昇進した。
 
 咸喬は、保之助がきてすぐあとの五月に北海道の釧路から、たった一人でやってきた。上野の駅ヘ、私と林之助、それに私たちだけではわからないので彼の同級生の桂洋(立浪)という力士と、三人でむかえに出ていると、ちょこちょことやってきた。

 かわいい子だった。保之助より三つ年下の中学三年生で、そのあとは堅川中学へ通わせた。

 三十年秋に木村郁也の名で序ノ口につき三十三年名古屋序二段、三十六年名古屋三段目、三十七年初幕下、四十七年春に木村咸喬と改名して、四十八年初十両に上がった。
 私の「卆寿を祝う会」は、小野錦と錦太夫、それに林之助と咸喬が中心になってことを運んでくれた。

行司の型、呼出しの型
 戦後になっても私たちはずっと須田町の家で生活していたのだが、長男に嫁がきたりしてあまりにも手狭になったので、あちこち土地を捜した末、

 工藤さん(工藤写真館)の口ききで、工藤さんの家の東隣のいまの土地(両国三の一三の三)を手に入れることができ、呼出し太郎さんの仲介で、いまの春日野理事長夫人のおとうさんの山田組社長のご尽力があってようやく家を建てることができた。

 これが二十八年十月だったが、当時はたったのふた間で、そこに私ら夫婦と、錦太夫、徳夫、のちに保之助と郁也が加わり、都合六人が暮らし、しかも毎日のようにどたんばたんと相撲を取っていたのだからどうにもならなかった。

 林之助と咸喬にやや遅れて、福ノ島、五ッ浦、徳夫らと同じ福江から、行司志願の子がやってきた。しかし、私の家が狭すぎてとても弟子の数を増やすことは無理。

 そこで春日野部屋なら一人ぐらいはなんとかなるということで、春日野親方(先代)木村庄太郎(先代、三役格)と相談して、春日野部屋でひきとってもらった。これが、ことしの初場所に十両に昇格した木村孔一である。

 その後、三十一年に建て増しして現在と同じ広さになった。

 春日野部屋には、木村英三、善之輔から改めた庄太郎、木村宗市から改めた庄二郎、木村貢から改めた善之輔(以上現幕内格)に、
 木村真佐也、真佐仁から改めた孔一がいるが、彼らも地方本場所や巡業ではずっといっしょに暮らした親類のようなもの。錦太夫、林之助、咸喬同様にかわいい。

 いまでもときどきは私の家へやってきて行司の話などをしていく。テレビをみていると、私の弟子や弟子に準ずる者たちの行司ぶりにどうしても目がいってしまうが、
 行司の型が乱れてきている現在、彼らがなんとかその型を守っているのをみるのは、私にとってもうれしいことである。

 行司の型について、それを文字で表現するのは非常に難しいので簡単にしておくが…、
〃土俵に上がったら、土俵の向こうはしに目をつける〃
〃すべて目八分か体にスキをつくらない〃
〃三歩進んで力士のシコ名を名乗りあげる〃

〃三歩進んだらまず客席の三列目くらいの胸に目をつけ、名乗りのときはうちわのはしに目をつける〃〃名乗りあげたあと後退するが、土俵のタワラまで下がっては土俵がしまらない〃

〃時間いっぱいのとき、うちわを返して、ヘっぴり腰、及び腰はかっこう悪い〃
〃立ち合いに気が合わなかったり、にらみ合いが長すぎるとみたら、行司が待ったをかけて両力士を分ける〃
〃立ち上がったら、残ったではなく、ハッキヨィ、…その他、土俵入りでも、あすの割りぶれでも、それぞれの正しい型がある。

 行司が型通りの動きをすれば、土俵が自然とひきしまる。土俵をひきしめることが行司の大事な役目なのである。
 行司に型があれば呼出しにも型がある。

 呼出しには呼出しの歩き方というものがあり、太郎さんなど最後まで呼出しの歩き方をしていた。呼出しはどこかいなせな感じがあるのがいい。

 左手をたもとにいれて、右手でかたちよくパッと一気にセンスを開き、呼び上げの最後には次第に右手を伸ばして上へあげていくと形がいい。昔は型のいい呼出しが何人もいたものだった。

なくなってきた力士の型
 力士にも型なしが多くなった。
 第二次世界大戦のころまでの力士は、たいてい自分の型を待っていた。そしてその型になったら簡単には負けなかった。
 ところが、最近の力士は、横綱でさえ、本当の意味の立派な型を持っていない。

 先代春日野親方、大横綱栃木山は「けいこは現在のためにするのではない。三年先のためのけいこでなければ意味がない」といっておられた。

 これがもっとも大事なことなのだ。ところが、最近はすぐ使える、勝ちにつながる手っとりばやい技ばかり覚えて、基本をおろそかにする。とんだりはねたり、バッタのようなのが多い。

 それで近ごろは決まるはずがないような小技が簡単に決まる。基本を無視した技が決まるのは相手にも基本がないからだ。
 昔は「引かれたらごっつぁん」といって、引き技によるはき手はたまにはあったが、ばったり四つんばいというのはほとんどみたことがなかった。

 決まり手も、片方が勝手に負けてしまう「すべりこけ」「つまずき」「け倒れ」「逃げ遅れ」「かけ出し」といった、みるにたえない決まり方が多くなった。

 突っ張りは、一方で相手の肩から胸元あたりを突いているとき、片方は下からおっつけるようにする。これではじめて、攻めと防ぎが一致するのである。

 バタ足になり、腰高で、おっつけを忘れるために、はたかれたり、ひっかけられると簡単にのめってしまう。アゴを引き、スリ足で、型のように突っ張れば、同格以下の力士に逆転されることなど考えられるものではない。

 四つ身や押しより、とかく備えがおろそかになりやすい突っ張りを武器にしていた太刀山や大木戸がめったに負けなかったのも、型が出来上がっていたからである。

 以前は、両力士が両まわしを取ってもみ合うなんていう相撲はめったにお目にかかれなかった。大きな力士なら、一方から引っ張り込んで一方からおっつける。

 小さな力士なら、一方からおっつけ、一方を差したらすぐに返して、差し手のほうに体を寄せる。これが四つ身の型であった。片方ならともかく、両まわしとも引くことはもっともいましめられていたものだ。

 土俵際の詰めもまずい。土俵際まできたら「まわしをはなしてひろげてしまい、体の力を抜き、腹を出し、腰を割る」のが極意。

 双葉山の詰めは全くの定石通りだった。最近の力士はまわしをはなさず、上体に力をいれ、腰高のまま、あるいはへっぴり腰でのしかかるから苦労する。

 押しの名人といえば、なんといっても栃木山である。出足の速さといい、スリ足といい、ハズとおっつけのぐあい、腰の割れぐあい、アゴの引けぐあいなど、まず一点の非の打ちようもなかった。

 自分も取らないかわりに相手にまわしを絶対に与えず、たまに取られるようなことがあっても、ハズにしてまわしを必ず切ってから勝負に出た。
 栃木山が右からねじり上げ、左をのぞかして返すと、相手の体は栃木山の左腕にのっかって浮き上がってしまったものだった。

 こんな名人だったから、一七二センチ、一○四キロの体で、大関になってから引退するまでの九年間に、たった八つしか負けず、引退して六年以上たった選士権大会に、当時の第一人者玉錦や、天竜、能代潟、沖ツ海、鏡岩らを連破して個人優勝することもできたのである。

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読売新聞社 大相撲 1980年7月号


さし絵 伊藤豊一画