二十二代庄之助一代記〈第十八回〉

泉  林八


相撲人気さらに急上昇!
 相撲人気はさらに上昇していった。
 二十七年秋場所からは、四本柱を撤廃し、代わりにつり屋根の四スミに四色の房のようなものを下げることになった。
 これで柱の後方から土俵が見にくいという従来の欠陥が一挙に解決したわけで、お客さんはぐんと見やすくなった。
 行司である私たちとしては、慣れるまでの一、二場所は、なんとなくぎごちなく、土俵場にしまりがないような感じがつきまとったが、そのために東と西を間違えるようなこともなく、次第に慣れていった。

 二十八年には、NHK、NTVなどのテレビ放送がはじまり、年四場所制も確立、けいこの充実につれて、肝心の相撲内容のほうも次第によくなってきた。

 二十九年にはいると、初場所後には吉葉山、秋場所後には栃錦と、人気力士が相ついで横綱に昇進、秋場所前には、完成した蔵前国技館の開館式が挙行されるなど、大相撲人気はいやがうえにも燃えあがっていった。

 そして三十年夏場所十日目、天皇陛下が蔵前国技館へおなりになり、はじめて本場所の相撲を、民衆といっしょにご覧になったことで、さらに大相撲人気はどっしりと地に着いたものとなった。

 行幸の際は、横綱、大関、理事たちとともに、私も立行司として表玄関近くでお迎え申しあげた。

 二十六、七年から三十三、四年へかけての大相撲は、どとうの寄りの東富士、突っ張りの千代の山、巨腹の鏡里、美男怪力の吉葉山、
 名人栃錦、異能力士若乃花、巨漢朝潮、さらには、出足の三根山、内掛けの琴ケ浜、ぶちかましの松登、巨人大内山、二本差しの信夫山、鶴ケ嶺、
 豪快な取り口の玉乃海、時津山、速攻北の洋、地力の出羽錦など、ひと筋なわではいかないというわき役もズラリとそろっていて毎日の相撲が面白かった。

 まさに、双葉山時代に匹敵するような相撲内容だったのである。

高松大合併巡業の勧進元
 三十二年四月五日、郷里香川県高松市の高松城内で、私が勧進元になって大合併巡業を興行した。

 大阪春場所のあとの大合併巡業は、四月四日に岡山、五日に道中一日をとって、六日に高知で興行することが早くから決まっていたが、五日の道中をつぶして高松でやったらちょうどいい、あんたが勧進元になってやってみたらとみんながすすめてくれて、それではという気になった。

 前にもちょっと述べたが、私は十九年夏場所の勧進元を、他の十一人の年寄といっしょにつとめる順番に当たっていながら、ちょうどこの場所から、本場所は相撲協会が主催することになり、勧進元の夢は流れてしまった。

 当時は伊之助だったが、その後庄之助に昇進しながら一度も勧進元をやったことがない。歴代庄之助で一度も勧進元をやったことがないのは私くらいのものだろうというので、結局、つとめることに決心した。

 高松の地方頭取で、大阪時代からの知り合いに小野川という人がいた。小野川といっても年寄の小野川とは関係がなく、相撲を取ったこともないのだが、
 先祖代々、何代目小野川を名乗り、相撲専門に高松付近の興行を牛耳っていたが、この人に話を通じて、興行を取り仕切ってもらうことになった。

 いまNHKで解説をやっている神風さんの現役時代の後援者だった鬼無の大林というお医者さん、それに高松市長、香川県知事、高松琴平電鉄社長、高松新聞社長などからも応援していただいた。

 私は子供のときに出たっきりで、郷里へ戻ってくることもまれだったため、庄之助が高松出身ということを知っている人があまりいなかったようで、その辺を大々的に宣伝したのが当たり、前人気から上々ということだった。

 巡業は、岡山−高松−高知までが大合併で、そのあとは各一門別に各地を巡業することになっていたが、香川県下の丸亀、坂出、長尾町(大川郡)の勧進元たちは、

 高松でこんなにハデにやられたら、こちらは興行できっこないから遠慮させてもらいますといって、手金を倍返しして手を引いたほどだった。
 四月四日の夜、私は若ノ花(先代)といっしょのハイヤーで、岡山から乗り込み、常盤館という旅館にはいった。

 興行は高松城内で行われたが、暗いうちから観衆がおしかけ、見物席にあふれてはいり切れず、急きょ力士や行司の支度部屋を狭くしてまで観客席にする始末。

 キップを持っていても入場できず、払い戻しをするなど、ちょっとした騒動が起き、はいれない子供たちが城外の木に登って見物するほど。結局、一万人をこえるお客さんがはいる超人気だった。

 吉葉山は負傷で欠場したが、横綱千代の山、栃錦、鏡里、大関若ノ花、松登、さらには新大関朝汐といった顔ぶれだったが、ふるさとはありがたいものだなあ…と、つくづく思ったものだった。

 このあたりまでは、相撲界にとっても私にとっても、いいことずくめ、こわいほどの幸運続き、順風満帆といった感じだったが…急転直下そのあとがいけなかった。

出羽海理事長の割腹事件
 高松巡業のほんの少し前、三月二日の衆議院予算委員会で、社会党の辻原弘市委員が、相撲協会は公益法人にもかかわらず興行的でありすぎると追及。

 つづいて四月三日、衆院文教委員会が、武蔵川理事、永井高一郎(元佐渡ケ嶽理事)和久田三郎(元天竜)服部忠雄(若瀬川)御手洗辰雄(評論家)岩原拓(保健体育審議会委員)ら六氏を招き、公聴会を開催。

 大阪場所から、近畿、中国、四国地方を巡業していた私らにはあまりぴんとこなかったが、協会内はてんやわんやだったらしい。
 そして…私が、いい気分になって高松から東京へ戻ってきたとたんに、出羽海理事長(元横綱常ノ花)の切腹事件が起こった。


当時の記録によると−−
 五月四日九時四十分ごろ、蔵前国技館に着いた出羽海は、すぐ協会事務所に顔を出し、武蔵川、秀ノ山両理事としばらく世間話をしてから、二階の理事長室ヘ…。

 十時五十分、国技館内の相撲博物館へいき、事務員の山崎シズエさんに声をかけて博物館を開けさせ、まず二階入り口に飾ってあった

 常陸山(出羽海の大恩人、先々代出羽海)と梅ケ谷が左四つに取っ組んでいる銅像の前に立ち、しばらくは動かなかったが、

 やがて陣列室にはいると、室の真ん中辺に飾ってある短刀のところへ近づき、そのヨロイどおしを手に取り
 「だいぶさびてるな。とぎに出したいんだが…借りていくよ」と山崎さんにいうと、左の内ポケットにしまい込んだ。

 十一時半、また事務所へ顔を出し「客が来るので、ウナギの重箱を二つ頼んで応接室へ持ってきてくれんか」と、
 中田事務員に千円札を渡し、取締役応接室にはいったが、事務員がウナ重を持っていったとき、応接室に客の姿はなく、出羽海ひとり書きものをしていた。

 準備を終えた理事長は、ウィスキーを飲み、おもむろにガスせんを開けたうえ、刃渡り二十四センチのヨロイどおしで、どてっ腹をえぐったあと、ノドを突いた…ときに十二時四十分。

 幸か不幸か、この日は翌五日に開かれる全日本柔道選手権の準備のため、館内に相当数の人がはいり込んでいたが、午後一時ちょっと前、NHKテレビの装置係がガスくさいとさわぎ出し、協会の松崎傭務員が発見した。

 応接室のドアを開けると、じゅうたんの上に紫の座ぶとんを敷き、足を入り口のほうに向けて、うつ伏せに倒れていた。

 あたり一面血の海……噴き出した血は、かたわらの白いソファにまで飛び散り、元せんがはずれたガスは、シューッと勢いよく出羽海の頭のあたりで噴き出していた。

 机の上には、ウナ重二つ(一つは空っぽだがもう一つは半分あましてあった)に、湯飲み茶わん、ウィスキーとコップ、革カバン、それに、夫人、千代の山、取締一同、在京理事あて、都合四通の遺書が置いてあった。

 発見後直ちに、救急車で台東区松葉町(現松が谷)の蛯名診療所に運び込まれた。左腹部に腹膜にまで達する長さ三十センチ、右ケイ(頸)部に十五センチの傷など、深い傷だけで七か所に及び、出血多量で血圧が下がり、そのときは生命はほとんど絶望視された。

 しかし、大量の輸血と、鍛え抜かれた体力、厚い脂肪層がものをいい、午後四時にはどうやら持ち直し、その後も急速に回復し、五月二十二日に退院の運びとなった。
 相撲協会理事長は五月六日、時津風取締(元横綱双葉山)が引きつぎ、出羽海は相談役になった。

〃オートバイ事故〃にあう
 出羽海相談役が元気を取り戻し、協会の時津風体制もしっかりしてきた矢先、私ごとで恐縮だが、こんどは私個人に災難がふりかかった。

 三十二年九月、秋場所の初日はくしくも十五日で敬老の日に当たっていたが…その初日、栃錦−若羽黒の結びの一番を裁いたあと、

 両国の自宅へ帰ろうと、千葉街道(京葉道路)の、当時はなかったが、現在ちょうど陸橋がかかっている両国三丁目の辺を、両国駅の側から南へ渡ろうとしたときだった。

 道の中ほどまできて、千葉方面から両国橋のほうへ向かう自動車が徐行したのをみた私が、手をあげて前を通ろうとした瞬間、その向こう側から急にオートバイが出てきて、足をひっかけられた。

 近くの伊能医院にかつぎ込まれて診察してもらったあと、自宅へ戻って、翌朝、出羽海相談役と懇意のあそか病院の田川重三郎院長が迎えにきてくれて、あそか病院に入院した。

 左ふくらはぎ辺の裏の骨(ヒ骨)を折り、頭を強打、右腰も強く打つ重傷で、まるまる一か月ほど入院したが、退院してもなかなか元通りにはならなかった。

 九州場所はむろん全休。三十三年初場所は、ツエをついてビッコひきひき蔵前国技館へ通った。取組を裁くのは無理だが、取締室へ出かけていってお願いし、この場所は中入りの〃顔ぶれ〃だけやった。
 大阪春場所は出場するつもりだったのに思うように回復せず、そのころ、伊豆長岡で一週間温泉治療をしたりして、夏場所初日、四年ぶりに、結びの一番、若葉山−千代の山戦を裁いた。

行司独立に反対したが……
 三十二年秋場所前、協会から行司の二枚鑑札はまかりならぬといってきた。

 当時は木村今朝三が錦島、式守鬼一郎(のち二十四代庄之助)が阿武松、式守勘太夫が鏡山を兼ねていた。このとき、
 鬼一郎などは「検査役という審判が弟子を養成できるのに、行司という審判がなぜ弟子を養成してはいけないのか」と協会に食ってかかったけれども、

 結局は行司の力が弱く、協会のいうなりになってしまい、今朝三と勘太夫は年寄専務となり、鬼一郎は阿武松を大晃に譲って行司専任となった。

 そのちょっとあとだったか……立田川理事(元二十一代庄之助)がやってきて、私たち行司を集め「行司部屋を独立することになったからそのつもりで」と発言した。

 私はそのとき〃ちょっと待ってくださいよ〃といって次のようなことを言ったように覚えている。「審判である行司が相撲部屋に所属しているのは確かにおかしい。

 独立して絶対中立の立場で勝敗を裁くのが理想でしょう。しかし、あなたもご承知のように、行司が自分が勝たせたいと思う力士が有利になるようにうちわを加減してあげるなんてことができるはずはない。独立させるならばむしろ検査役ではなかろうか。

 それに、もし独立するとして、行司には力士や親方衆のようにカネがない。資金をつくるわけにはいかない。建物、ふとんはもちろん、茶わんや、はし一本ない。協会で全部そろえてくれるというんですか」
 
 すると立田川さんは「カネを出そう」とはいわず「協会でカネは貸そう」という。
 昔から、検査役(いまの審判員)が利益代表としてゴリ押ししたことは何度もあるが、行司が利益代表としてうちわをあげたなんてことは聞いたこともない。

 私が伊之助になってからとった黒星四番をみても羽黒山−備州山戦では、出羽海一門と反対の西方の羽黒山にあげ、鏡里−千代の山戦では自分の部屋の千代の山でなく、鏡里にあげ、

 若乃花−北の洋戦では、出羽一門の栃錦と優勝を争っていた若乃花にあげ、松登−吉葉山戦では松登にあげたがこの相撲は出羽一門に全く関係がなかった。

 これだけをみても行司が部屋一門の利益代表でないことははっきりする。(詳細は庄之助一代記第十六回 差し違いにもいろいろ 参照) このときのことに関して、二十一代庄之助の系統である二十六代庄之助が次のように書いている。

 「三十三年一月、行司が独立するときも、私たちはほとんどが反対だったんです。協会は、行司は厳正中立でなくてはいけないから相撲部屋に所属してはいけないということで行司部屋を独立させるという、その趣旨は悪くはないんですが、
 協会はただ独立しろというだけで、どこに住まわせるのか住むところはないし、資金もない」

 こんなぐあいで賛成者はほとんどいなかったようだが、正面きって反対するのが私一人ではどうすることもできない。

 私は承諾はしないけれども、一人で反対していても話が進まないから、話を進めてみようということで、伊之助、正直(のち二十三代庄之助)と三人で、私はビッコをひきひき何度も協会へ足を運んだ。

 「私個人としては絶対反対だし、もし協会からカネを借りても返すあてはありませんからね」と念をおしてから、武蔵川(元出羽の花)楯山(元幡瀬川)秀ノ山(元笠置山)らと何度も話し合った末、とりあえず旧両国国技館の茶屋のあとを改造して行司部屋にすることが決まった。

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読売新聞社 大相撲 1980年9月名古屋場所総決算号

さし絵 伊藤豊一画