二十二代庄之助一代記〈第二回〉

泉 林 八


初の名乗りは「木村金八」

 私が入門した竹縄部屋は、大阪・ミナミの北堀江下通二丁目にあった。親方は、竹縄半右衛門。当時、大阪相撲では、年寄にあたる職種を頭取(とうどり)と呼んでいた。

この親方は、元石火矢という力士だったそうで、十両どまりのお相撲さんだったようだ。すでに六十歳をいくつか越していて、背は高かったが肉づきはそれほどでもなかった。

 名前は、親方が「木村金八」と決めてくれた。親方は、気のいいおじいさんで、初土俵の場所に私が木戸を通ると、はたにいる頭取や世話人に

「この子がこんどはいった行司の金八やねん。子供ださかいに、よろしゅうたのんまっせ」と、
一人一人ていねいに紹介してくれた。

 当時は、東京もそうだったが、頭取が交代で本場所の勧進元をつとめるしきたりになっていたが、私の初土俵の明治三十二年六月場所は、ちょうど親方が勧進元に当たっていたので、部屋全体が浮き浮きとして気勢があがっていた。

 部屋頭は大淀昇七関で、当時十両。下に十四、五人の相撲取りがいた。
 大淀関は名前からもわかるように宮崎県の出身。
 三十五年六月に入幕。三十五、六貫 (一三二、三キロ)もあって、なかなか立派なお関取だったが、これからというときに、大和下市(奈良県吉野郡下市町)の巡業先で、かっけ衝心のために急死したのはおしかった。

 その後、やはり宮崎県出身の男鈴山長八が強くなり、三十九年二月場所に入幕。四十四年二月には小結に上がっている。東京との合併相撲のときに活躍して、浪花ッ子を喜ばせたこともあった。

 初土俵のひと月ほど前、五月上旬に、大阪西区の西九条(現此花区)で、京都相撲との合併興行が三日間あり、私も初土俵の予行演習のような気持ちで、土俵にあがった。

 京都の大関はたしか、虎林直治郎といった〃ハゲ虎〃というアダ名のとおり、すっかりヒタイがはげあがったお相撲さんだった。

「総理」は大阪の大親分

 三十二年六月場所の番付−−。行司は中央に書かれているが、そのしりから三人目に木村金八の名がのった。 当時の大阪行司は、木村玉之助と木村竜五郎が立行司。

 三役格が、吉岡一馬、木村正直、岩井広政、木村玉治郎。その他、番付に三十人も名前がある。

 のち、ともに東京の立行司となり、昭和三十四年十二月に私といっしょに定年退職した木村玉之助さんは、私より一年先輩で年齢は二つ上、木村玉吉の名で、私より六、七枚上に名前があった。

 当時の大阪の番付は〃六段番付〃で、東京ではみられない珍しいものである。

 最上段が幕内、二段目が十両と幕下、三段目が三段目、四段目が序二段というのは東京と同じだが、五段目は「見習」という名で、東京の序ノロに当たるわけだが、東京の序ノロと違って五段日全部が見習だから、人数は東京よりずっと多い。

 番付にのっている力士総数は三百七十人ほど。それに当時は番付外に百人近い前相撲力士がいたように記憶している。
 最下段の六段目に、頭取、世話人の名がある。頭取というのは、部屋持ちの親方で二十二人。うち、勝負検査役が八人、部長が二人。

 世話人は、東京の世話人とは違い、年寄のようなもので、世話人から頭取に上がる人もあった。世話人が三十八人、助頭取というのが二人いたが、世話人や助頭取のままでは、検査役や部長にはなれない。

 中央の、東京番付の「蒙御免(ご免こうむる)」というところに「大相撲」とあり、その下に何年何月何日よりどこどこにおいて晴天十日間興行とあり、その下が行司、その下に、総理小林佐兵衛、取締藤島和一郎、小野川信蔵、いちばん下に、興行人竹縄半右衛門、差添人藤島和一郎となっている。

 小林佐兵衛というのは当時の大阪の大親分で、相撲とはあまり関係がないのだが、大親分を総理ということにしておけば、興行上なにかと便利だったのだろう。

神理教横綱・八陣調五郎

 私にとって記念すべき番付なので、幕内全力士の名をあげておこう。
 横綱 八陣調五郎

 大関 荒鹿勝右衛門 秀の海幸右衛門
 関脇 平石光治 一の浜音吉
 小結 清見潟力松 琴の浦熊治郎

 前頭 大の松竹治郎 虎林久治郎
  同 熊ノ音卯三郎 響矢由太郎
  同 手柄山勝司  大嶋仁吉
  同 大泉保吉 小柳市太郎

  同 四ッ車大八 盛山伊之助
  同 荒虎捨吉 春日森富三郎
  同 荒玉歳之助 大山伯右衛門
  同 鞆の平音吉 若島大五郎

  同 山響友吉 鷲ケ浜林蔵
  同 月の森亀吉 相見潟勘吉
  同 伏虎山陸三郎 盤石勝治郎
  同 山田川幸治郎 京 石松

  同 鏡岩浜之助 一軸久八郎
  同 玉の矢亀吉 梅ノ矢房吉

 八陣調五郎は、横綱とはいっても、熊本の吉田司家へ申請して許されず、明治三十年九月に神理教から免許されたもので、東京の横綱にくらべたら、力量はかなり落ちた。
 一六七センチ、一二○キロくらい。いまの富士桜に顔つきも体つきもよく似ていたが、もう少しどっしりとしていた。

 顔に天然痘のあとのあばたがあった。貫録は十分だったけれども相撲はさほど強くなかった。
 西八枚目の若島大五郎が、のちの横綱若島権四郎である。
 けいこ熱心で、このころの若島はぐんぐんと強味を加えていった。

 西十三枚目の一軸久八郎は、のち国岩九八郎と改め、常陸山のすすめにより東京相撲へ移って両国梶之助の名で小結まで上がり、六代目出羽海になった人。

 一六五センチ、九○キロたらずの小兵ながら、奇手縦横、手取り名人型の力士だった。
 大淀はこの場所西十両九枚目。最初の小相撲でお世話になった谷の音は、東十両三枚目、翌三十三年六月に入幕している。

 この場所は、琴ノ浦が元気で八戦全勝の成績をあげ、若島が七勝一敗、秀の海が六勝一敗二分け、一の浜が六勝一分け一預かり、横綱八陣は六勝二敗一分けだった。

本場所には行司部屋独立

 当時の本場所は、南地五階に小屋掛けして行われた。
  この「五階」というのは、現在の大阪場所でおなじみの大阪府立体育会館の五百メートルほど東、大阪球場のすぐ東、

 いまの南海電車の線路の東側の空き地に、木造の物見台があり、その物見台が五階建てになっていたので、大阪人はこの空き地のことを「南の五階」と呼んでいたのである。

 昼間は子供の遊び場、夏の夜などは大人が涼みにくるような場所だった。
 空き地といっても、カヤが茂っているのを刈り倒して小屋掛けする。
 この辺はあちこちに空き家があり、各相撲部屋は、その空き家を借り、臨時の部屋をつくって合宿する。

 入り口には、部屋の名を書いた大きなちょうちんをぶらさげる。相撲部屋から相撲場までジカに通ってくる部屋はきわめて少なかった。

 私らの竹縄部屋も、北堀江の部屋から五階まで、歩いてもせいぜい二十分くらいしかかからないのだが、五階の近所の空き家を借りて合宿していた。

 ただし、本場所となると、私も新米ながら、部屋からはなれて行司部屋の一員となる。

 当時、大阪相撲でも、東京同様、行司は各相撲部屋に所属していたが、本場所のときだけは、やはり場所近くの空き家を借りて、行司部屋として独立するのである。

 行司は、経済的な理由から、完全独立は難しく、東京でも最近また行司全員が相撲部屋の所属に変わってしまったようだが、本場所がはじまると独立する当時の大阪相撲は、その点で東京相撲よりも進んでいたということができよう。

 行司だけが一軒に合宿し、兄弟子行司の世話をしたリ、炊事や、ランプのホヤそうじをやった。
 行司部屋で眠っていると、呼出しが「イチバン、イチバーン」と起こしにくる。それが午前三時半ごろだったろうか。

 初土俵の場所は、当然、私も前相撲の行司をつとめた。
 相撲場には電気などはひいてない。夜がしらじらと明けるころ、一番拍子木が鳴って前相撲が始まる。
 東西のたまりには頭取や世話人が居並び、前相撲は木戸銭はとらないから、朝早くても何人かのお客はいた。

 千田川部屋の鈴木と、湊川部屋の吉田の対戦なら、呼出しが土俵下から「センのスズキ」「ミナトのヨシダー」と呼びあげる。むろん前相撲は飛び付きだ。

 東京相撲では、一番勝っても二番目に負ければ〃くされ星〃といって白星にならなかったが、大阪では一番勝てば一つの星になった。前相撲でいい成績をあげると見習にあがる。

 もちろん「晴天」十日興行。初日のふれ太鼓を回しても翌日雨なら順延となる。その翌日に晴れ(雨でないこと)て午後からふれ太鼓を回しても、翌日に雨ならまた中止。

 つまり、二日連続して晴れない限り、いつまでたっても興行できないのは、東京も大阪も同様だった。
 したがって、十日の興行にひと月近くかかることがよくあった。

晴天の日に〃雨天のため〃

 小僧ッ子の私は、竹縄部屋のマスコットみたいになっていった。お相撲さんたちが酒を飲みたくなると、すぐに私を呼んで、
十銭玉一個と四合ビンを渡して

「金八、酒屋へいってこい!」
 といいつける。当時は、銭湯が一銭五厘でもりかけが一銭五厘か二銭のころ、酒一合は三銭ぐらい。十銭で四合はちょっと無理なのだが、私がいくと、酒屋の番頭さんも気の毒がって

「坊や、大変だな」
 と、ビンいっぱいにまけてくれる。
 こんなふうだから、お相撲さんも「酒買いは金八に限る」と、夜中でもなんでも、たたき起こされて私が買いにやらされたものだった。

 地方巡業で野天興行をやったとき、いまでもそうだが、雨が降り出して相撲が「入れ掛け(中止)」になることがある。こういうときは、昔は行司がいちいち土俵に上がって

 「本日興行いたしますところ、ごらんの通りの雨天のため、よんどころなく休場いたします。お客さまにはご損のなきよう、かねて入場のさいお渡ししましたる紙札をご持参くださいますれば、興行中は、木戸、中とも通用でござります」

 というように触れたものである。ところが、客の入りが悪くて休んでしまう場合もある。大阪相撲の巡業はとくにこれが多かった。

若島が大関のころだから、三十四年か五年の話−−。
 九州・佐世保の巡業で、日が高くなっても客が来ない。仕方なく入れ掛けの触れを回すことになった。

「おい金八、入れ掛けだから触れてくれ!」と命ぜられ、私は心得てすぐ土俵に上がり
「本日興行いたしますところ、ごらんの通りの雨天のため…」
 とやると、途端に客がドーッと笑った。

 どこか間違えたかなと思ってまたくり返すと、ドーッとくる。十歳前後のころ、尋常小学校二年中退の私は、不幸にして〃うてん〃の意味を知らなかったのである。

 見物も相撲取りも、いっしょになって笑っているだけで、だれも教えてくれない。くやしいから一段と声を張り上げて、終わって土俵からおりてくると、はじめて三段目の兄弟子が

「雨天というのはな、雨の日のことなんだバカヤロー」
としかった。とたんに私は、無性に悲しくなり、腹が立って、泣き出してしまった。

 そういう不入りの入れ掛けの触れは
「本日はお客さまのお運びが遅うございます。それにつれて始まりも遅く、日も西山に傾き、番数も取りつくしがたく、よんどころなく休場いたします。
 お渡ししました紙札は、当興行中有効にござりますれば、明日もおはやばやと、ご来場お願い申しあげます」

 とやるのである。

筆を忘れて往復六里

 十一、二歳のころ。岡山県から山口県を巡業したとき、夏の盛りで暑くって仕方がない。相撲場の近くが川だったから、相撲取りもみんな泳いでいる。

 土俵にはまだ早いので、私は、のちの玉之助の玉吉、それに木村太郎と、豆行司三人で、こっそリハダカになって泳ぎはじめた。瀬戸内海のすぐそばに生まれた私は、泳ぐほうではいささかの自信がある。
 夢中で水遊びをしていて、ハッと気がついたら、けいこが終わって相撲がすでに始まっている。

「うわっ、大変!」
 と飛んで帰ったが、私たちの土俵はもうすんでしまっていた。その晩、親方、兄弟子たちからコテンコテンにアブラをしぼられ「出ていけ!」といわれるのを、

 若錦という世話人が「なんといっても子供なんだから…」とわびをいれてくれて、ようやくクビをまぬがれた。

 そのときは、板の間に三時間以上も座らされ、タめしはもらえなかった。
 その後は、昼はおとなしくしていて、夜泳ぎにいった。上がってみると、三人とも着物がない。てっきり盗まれたと思い、
 大ベソをかいて戻ってくると、兄弟子にみつかって着物をかくされたとわかった。このときも「子供が夜、川なんかで遊んでいていいと思うのか」と、大目玉をくらった。

 そのころ、私ら下っぱ行司のことを〃スミスリ行司〃といったが、これは巡業中など、兄弟子が明日の取組を書いているときわきでスミをする役目があったことからきている。

 あるとき、筆を洗って干したまま置き忘れて次の巡業地まで行ってしまい、三里の道を取りに帰り、往復六里を歩いたこともあった。

 修業としては、子供だったせいか、精神的にのんびりしていたのでそれほど辛い思い出はないが、寒声といって、真冬になると、明け方に川べりなどへいって、声がつぶれるまで発声の練習をしたものだった。

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読売新聞社 大相撲 1978年1月初場所展望号


さし絵 伊藤豊一画