二十二代庄之助一代記〈第二十回〉

泉  林八


〃庄之助最中〃を売り出す
 六十二年間もつとめ、最高位までのぼりつめたといっても、退職金は二百五十万円ぽっきり。
 それから税金を差し引かれ、恩給、非職給、あるいは失業保険といったものは一切ない。

 行司最高の庄之助になった者が、恥ずかしいことながら、のんびりしていたのでは生活ができない。

 かといって、庄之助までつとめたものがあまりへんなことはできない。
 そこで、もっともてっとり早い方法として、長男の雄介が前からやっていた須田町の菓子屋で、もなかを軍配型うちわのかたちにして〃庄之助もなか〃という名で売り出すことを考えた。

 話は戻るが−−両国二丁目、一之橋の近くに、いまも新井屋というお菓子屋さんがあり、そのご主人と私が以前から懇意にしていた関係から、雄介が子供の時分からよく遊びにいっていたのだが、そのうちに次第に菓子づくりに興味を持つようになってしまった。

 結局、長男は新井屋さんで正式に和菓子づくりを習い、八か月の修業ののちに、須田町の家でお菓子屋をやることになった。これが二十四年の九月だった。

 その後、長男に嫁がきたりして、須田町の家が手狭になったため、いまの両国に小さな家を建て、長男夫妻と別々に住むようになったいきさつについては、前に(庄之助一代記第十八回)述べた。そのあともずっと長男夫妻が須田町で〃いづみ家〃という菓子屋を続けてきたわけだ。

 私が引退するとすぐ、いづみ家の屋号を〃庄之助〃に変え、うちわ型の「庄之助最中」を売り出した。これが運よく成功したのである。
 お祭りのとき、お節句のときなどには、お客さんが行列みたいにして来てくれる。

 その後、菓子のレパートリーを増やし、おこわや、即席しるこなども評判がよく、現在に至るまでずっと繁盛している。最近は、おかげさまで、阪急、松屋など、デパートにも店を出さしてもらうほどになっているようだ。

 定年退職した直後は、相撲のテレビなどをみないようにしたり、たまにみても三役が出てくるようになるとフロ屋へいってしまったり、

 相撲をなるべく忘れたいという気分、相撲を避ける気持ちがあったが、その後ほどなくして、日本テレビから話があり、清水川の間垣さん、琴錦の佐渡ケ嶽さんらといっしょに相撲解説をやった。

 訥弁で、しゃべることが苦手な私だったが、このときは、原和男さんらアナウンサーと並んで話をしたので、比較的やりやすかった。
 日本テレビは三場所か四場所で終わったと思う。

 三十七年からは、北出清五郎さんから話があって、NHKテレビの解説をつとめさせてもらった。
 このときは、裏正面にたった一人で座っていて、
 正面のアナウンサーから「庄之助さん、どうですか?」と尋ねられたときだけしゃべったのだが、質問がこないときは手もちぶさたでいらいらし通しだったし、

 質問があっても、いったいどこをみて話したらいいのか、なんともやりにくい感じがつきまとった。
 NHKの解説は、三十九年まで、三年間続いた。

松翁、越後、19代庄之助
 ここで、私がこれまでに接してきた百人をこえる行司のうち、私が名行司だなあと心から感心した人たちについて述べてみることにする。

 最高の行司は、私の知る限りでは、なんといっても、二十代目の木村庄之助、松翁である。
 栃木県鹿沼の出身。三代目式守錦太夫、七代目式守与太夫、十五代目式守伊之助を経て、二十代庄之助となり、十一年春場所前に松翁を許された。

 姿がよく、声がよく、型がよく、識見、土俵態度、うちわ裁き、掛け声、名乗り、顔ぶれなど、なにをやっても、立派で、風格があり、なにげない貫録があり、一点の非のうちどころもなかった。

 松翁が土俵に上がったとたんに、ピーンと緊張感が張りつめ、気品がみなぎる感じになるからフシギだった。
 私も、及ばずながら、常にこの人のマネをすることで上達しようとつとめた。顔ぶれなどの動作、姿かたちも、いいなと思ったところは少しずつでもとりいれさせてもらった。
 その通りとまではとてもいかないが、この人のマネをすることが、進歩の近道だった。

 現式守錦太夫は、松翁の養子である。
 大阪の木村越後は、私の師匠ともいうべき人だが、これまた松翁に匹敵する名行司だった。

 この人は愛知県の出身で、本名の柳河正直から、そのまま木村正直を名乗り、正直から、明治四十五年五月に、十一代目木村玉之助となった。
 そして大正五年一月に、江戸時代、南部相撲の名行司として知られた長瀬越後からとって、木村越後と改めた。
 のちには検査役もつとめ、協会の参謀として勢力があったが、私は、行司としての基本をこの人から教わった。

 この越後が、玉之助になったばかりのころ、当時は、東京に庄之助、伊之助、大阪に玉之助と、三人の立行司がいたが、
 東西合併相撲があったとき、越後が「東京の庄之助より玉之助が上になっては、悪例が残る」といったところ、
 庄之助が「いえ、玉之助さん、あなたは東京におっても当然庄之助になる人だったが、大阪へいかれて玉之助になられたのだから…」と、
 結局、庄之助が中入り前の結びをやったときは、玉之助が中入り後の結び、翌日はその逆というように、交互に裁くことになった。

 力士のちからでは、東京と大阪との間にはかなりの差があったのに、行司は東京と全く同格に扱ってもらえたのは、すべて木村越後さんの力だった。

 松翁さんとは全くタイプが違うのだが、立ち上がり「ハッキョイ!」という気合の激しいこと、力士に相撲を取らせるんだという意気込みがひしひしと伝わってくるような行司ぶりだった。見そこない、なんということはそれこそ、一度もみたことがなかった。

 明治四十年ごろ、大阪本場所の放駒−扇海戦は、扇海が押し込むのを、放駒が土俵際で左からすくい投げを打ち、越後(当時正直)はうちわをさっと放駒にあげたが、勝ち名乗りをあげ終わってから、控えの雷山(のち陣幕)が物言いをつけた。

 見物のワーワーいう声で物言いがわからず、越後さんが花道を引き揚げかかったのを、うちわ持ちとしてついていた私が「物言いがついています」というと、

 すぐに戻ってきて、雷山が物言いをつけたことがわかると雷山のところへいき「いまの相撲は物言いがつくような相撲じゃない。
 私は絶対の自信をもってうちわをあげている。あなたがあくまでがん張るなら、私はあなたと差し違える」と刀を抜きそうになった。
 検査役が寄ってきて、雷山を得心させて、このときはおさまった。

 名人、達人というのは、松翁や越後のような人のことをいうのだろう。
 松翁、越後につぐ名行司というと、やはり十九代目の木村庄之助だろう。
 この人は東京・両国の生まれで、六代目式守与太夫から、十三代目式守伊之助を経て、十九代庄之助になった人だ。

 与太夫時代は、勘太夫(のちの十四代伊之助)、錦太夫(のちの松翁)とともに、名行司三太夫といわれ、実にさっそうたるものだった。
 人物、手腕とも備わり、声がよく、態度におのずから威厳があり、歯切れのいい動作と裁きで評判をとった。

 以上が、私が選ぶ名行司のべストスリーというところである。こうした名行司と比較したら、いまの行司は気の毒ということになるだろう。

〃問題の二番〃について
 私が定年退職してからの相撲で、判定が問題になったのは、四十四年春場所二日目の戸田(のち羽黒岩)−大鵬戦、四十七年初場所八日目の北の富士−貴ノ花戦であろう。

 戸田−大鵬は、戸田が押して出ると、大鵬はズルズルッと後退、右へ右へと回ってはたいた。戸田は思わずのめって右足を土俵外へ出し、そのあとに大鵬が後ろ向きに土俵を割った。

 二十二代伊之助(のち二十六代庄之助)は、うちわを大鵬にあげたが物言いがつき、なんと差し違えと判定されてしまった。

 大鵬は勝ち相撲を負けにされて四十五連勝で記録がとぎれ、伊之助は協会に対して進退うかがいを出したのである。

 北の富士−貴ノ花は、左四つから北の富士が出て、右の外掛けからのしかかるのを、貴ノ花はそり身になって左後方へ振った。北の富士は貴ノ花の頭よりも向こうに右手をつき、そのあと、貴ノ花の体が落ちた。

 二十五代庄之助は、北の富士の右手を〃つき手〃とみて貴ノ花にあげたが、物言いの結果、審判の意見では、北の富士の右手は〃かばい手〃ということで、北の富士の勝ちと決まった。

 貴ノ花の体がそり身になり、ツマ先が上がれば、その時点で〃死に体〃となり、北の富士の右手は当然〃かばい手〃となり、北の富士の勝ちになるわけだが、

 写真でみても、北の富士の右手がつく瞬間にはまだ貴ノ花のツマ先が土についており、逆転能力を秘めている。つまり生き体である。
 私がみてもかなり貴ノ花に分のある一番だったが、庄之助は翌九日目から一週間の謹慎処分を受けた。

 ともに行司のうちわが正しいのに、審判から物言いがつき、行司の差し違いになっている。こういうケースが意外と多いところをみると、行司も最近あまりパッとしないといっても、審判はもっとひどいということもいえると思う。

 審判委員は、行司よりみやすい位置に五人もいるのだから、もっともっと勝負を正確にみてもらいたいものである。

けいこをみることが大切
 最近の行司は、力士に足を払われて倒れたり、ぞうりがぬげたり、安易に正面へ回ってシリを向けたり、ちょっとひどすぎるということで、
 秋場所あたり、ずいぶん問題になったようだが、確かにひどすぎる行司も何人かいる。

 行司は力士に相撲を取らせるのだという心意気、意気込みがたりないのだ。

 立ち合いに「ハッキョイ!」というのは「お互いに力いっぱいやれよ」という意味であり、力士が攻め合ったとき「ノコッタノコッタ」というのは「よく残したな、まだ残っているぞ、しっかりやれ」という意味で、ともに励ましの言葉である。

 両力士の動きを見究め、先へ先へと動いていなければ、とても力士に相撲を取らせることはできない。全く体勢をくずしてしまい、逃げるのがせいいっぱいといった動きでは、行司の責任を全うすることができるはずはない。

 私らの時代の行司は、若いころはよく相撲を取ったし、常に力士のけいこをみた。東京にいるときも、巡業中も、私は一日も欠かさずけいこをみた。

 けいこをみているから、どっちへくるのか、自然に力士の動きが察知できる。弟子筋にあたる錦大夫や林之助にはよく、けいこをみろみろというのだが、
 なかなか毎日というわけにはいかないらしいし、最近は一年中ほとんどけいこをみたことがないという行司も多いそうだ。

 それでは土俵のまわりを逃げ回る感じになるのも当然といえるだろう。
 私など、昔のくせがいまだに抜けず、この年になっても、よく部屋のけいこをのぞいている。

 たしかに最近は条件も悪い。家庭を持っても、私など、遠くても須田町、のち両国ということで、部屋まで歩いていける場所に住んでいられたが、
 近ごろはとてもそういうわけにはいかない。部屋まで二時間近くもかかるところに住んでいる行司もいるという。

 それでは毎日みにくるのはムリだろう。しかしけいこをみるのだという姿勢だけは常に持っていてもらいたいと思う。
 その点、おそまきではあったが、近ごろ行司がそろってジョギングなど、トレーニングをやるようになったのは、いいことだと思う。

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読売新聞社 大相撲  1980年一月号

さし絵 伊藤豊一画