二十二代庄之助一代記〈最終回〉

泉  林八


私の趣味は囲碁と将棋
私の趣味といえば……囲碁と将棋ということになるだろう。

 碁との付き合いは古く、明治三十七年ごろから打っている。大阪時代は、現増位山のおとうさん・三保ケ関親方の師匠である滝ノ海の先代三保ケ関さんとよく打った。

 東京へ来てからは、元両国の六代目出羽海親方と実力がどっこいどっこいで、ヒマさえあればほとんど毎日のように打っていた。
 十六代伊之助、緑島の立浪、柏山の山科、宇都宮の九重といった人たちともよくお手合わせした。太刀山の東関さんとは打ったことはないが相当に強かったと聞く。

 戦後間もないころ、高砂部屋に村島喧紀さんが出入りして指導していたので、私も便乗して教えてもらった。
 その後は、前田山の高砂さん、佐賀ノ花の二所ノ関さん、旭川の玉垣さんらともだいたい互角で、よく戦わせた。昭和二十九年一月に、初段の免状をもらっている。

 定年直後の四、五年は、有楽町駅のガード下にあった碁会所まで出掛けていって、年がら年中熱中していたものだ。
 将棋も、大阪にいたころから指すには指したが、碁のほうが面白くて、あまり興味が持てなかった。東京へ来てからも、ほんのたまにやるくらいで、栃木山の春日野さんらが強くて、私など敵ではなかった。

 行司を引退するほんの少し前から、出羽錦(現田子ノ浦)らとぼつぼつ将棋もやるようになったが、定年退職後の三十六年二月、両国一丁目のかりやで、力士と将棋の会が開催されたことがあった。

 そのときは、羽島山の松ケ根が優勝、北の洋(現武隈)が二位、名寄岩の春日山が三位。番外戦で春日山が飛車角落としで升田九段を破る殊勲をたてた。
 私はあまりふるわなかったが、認められて、この人たちといっしょに二段をもらった。

 そのあと、一之橋のたもとの将棋クラブによくかようようになった。四十年ごろからは、両国二丁目に南条さんという将棋好きの人がいて、
 この人は包丁やはさみの研ぎやさんだが、毎晩のように出掛けていって、十一時すぎまで、勝ったり負けたりの熱戦を展開した。
 しかし三年ほど前から、大達の湊親方が私の家へ来て毎日のように指すようになったので、次第に南条さんの家へは足が遠のいてしまった。

 囲碁のほうは昔からやや本格的にやったが、いまは相手がいないためにほとんどごぶさたしている。将棋のほうは専門家に習ったこともなくずっと自己流だが、
 定年後はかなり熱心に指してきたので、少しずつは腕もあがっているかもしれない。

 碁のほうは負けてもそれほどくやしいとは思わないのだが、どういうわけか、将棋に負けるとカーッと頭に血がのぼって不愉快になり、寝てからも将棋盤が目に浮かんでくる。

 将棋は王様が詰められて身動きが出来なくなるからだろうか。私だけの現象なのだろうか………。

四人の横綱ももう故人
 私は、大正十一年に東京へやってきてから昭和三十四年いっぱいで定年になるまでず−っと出羽海部屋にお世話になったわけだが、

 その間に、部屋から生まれた横綱は常ノ花、武蔵山、安芸海、千代の山の四人。その四人が四人とももう、この世の人ではなくなってしまった。

 常ノ花の出羽海さんが三十二年の五月四日に割腹事件を起こし、理事長から相談役になったことはすでに述べたが、
 三年半後の三十五年十一月二十八日、九州場所千秋楽の翌朝、二日市温泉で胃カイヨウのために亡くなった。六十四歳だった。

 キビキビした取り口、突っ張り、やぐら投げなど、ハデな動きで人気があった。陽気で愉快で、いっぱい飲んだら、歌ったり踊ったり、いっそう朗らかになった。

 昭和初年には必ず毎年暮れに一週間、高知市で巡業が行われたが、当時「得月楼」と並んで超一流の料亭だった「大貞」に、
 横綱常ノ花持ちで、大ノ里、常陸岩、山錦ら全関取衆、春日野さんら親方衆、私ら行司に、他の一門からもかわいがっていた玉錦らを呼び、芸者衆総あげでパーッとハデにやるのが恒例になっていた。なにかにつけてハデで、気前のいい人だった。

 武蔵山は、引退後は出来山から不知火となり、理事にあがりながら、終戦直後に大相撲の前途を見限ったものか、二十年秋限りで廃業していった。

 その武蔵山も、四十四年三月十五日、横浜の自宅で心筋コウソクのため、五十九歳で死去。
 右ヒジを痛め、横綱になってからは全く不振だったが、三役時代の人気は相当なものがあった。

 安芸海は、三重ノ海の動きをもっと鋭く速く、ハデにしたような力士で「近代相撲の華」とまでいわれ、強いときはすごかったが、
 非力で、マラリアがときどき出たため、全盛期は短かった。

 不知火から藤島を襲名して理事になったが、常ノ花の長女といっしょになりながら離婚したため、三十年初場所限りで廃業した。
 常ノ花の七代目の跡とりに決定していたのに、惜しいことだった。五十四年三月二十五日、うっ血性心不全のため、六十四歳で亡くなった。

 千代の山は、突っ張りに威力があり、取的時代から横綱を期待され、横綱にはなったけれども期待されたほどの大力士になれなかったのは、気がやさしすぎたせいだろう。

 けいこ場では栃錦がどうしても勝てないほど強かったのに、勝負師としての執念深さに欠けていたようだ。
 出羽海部屋から破門されて九重部屋をつくり、ある程度成功しながら、五十二年十月二十九日に肝臓ガンで亡くなったのは惜しかった。五十二歳。私よりエトにして三まわり、三十六歳も年下である。

出羽海部屋のおかみさん
 両国梶之助の出羽海未亡人・古川ちよさんが、つい先だっての五十五年十月十三日に満九十六歳で亡くなられた。
 ちよさんは明治十七年八月二十二日、名古屋市熱田の生まれ。教え九歳で初代高砂浦五郎の養女となり、二十歳のとき両国梶之助と結婚、常陸山の出羽海さんが亡くなってからは、出羽海夫人として部屋経営に努力された。

 初代高砂には適当な跡とりがなく、高砂さんとの約束で最初の子供が生まれたら高砂の跡とりとすることが決まっていたそうで、
 長男の勝男さんが山崎姓を名乗り、ゆくゆくはお嫁さんをもらって夫婦養子になる予定だったが、勝男さんが早せいしたため、高砂の山崎家は絶えてしまった。

 二男の次男さん、三男の三男さんと、すべて結核を患って早死にしたが、長女の千世子さん、四男の四郎さんは健在。千世子さんは銀行家の奥さん、四郎さんはいま、相撲サービス会社の社長である。

 ちよさんは、部屋のおかみさんとしては文字通り最高の人で、出羽海部屋所属のすべての力士から慕われていた。
 私も随分かわいがっていただき、つい最近まで付き合いがつづき、ずっと元気にしておられたので、百歳、百十歳までも元気でいてほしかった。

 出羽海は、常陸山が五代目、両国が六代目、常ノ花が七代目、出羽の花が八代目ときて、いまの佐田の山が九代目ということになる。
 佐田の山は、私が引退するときはまだ幕下で、その後、十両、幕内とあがり、横綱を許され、四十三年春場所の引退と同時に出羽海を襲名したので、私との深いつながりはない。

 しかし、この社会の人としては珍しいくらいにしっかりしていて頭がいいので、栃錦の春日野さんと手をつないで努力し、大相撲発展のために尽くしてもらいたいものである。

長寿の秘訣は〃腹八分〃
 私は、明治二十三年の三月一日生まれだから、現在、教えで九十二歳、満でももうすぐ九十一歳になるが、腰痛がときどき起きるくらいで、どこといって悪いところもなく、至極元気である。

 そのせいか、いろいろな人から「長寿の秘訣は?」とか「なにか健康法は?」と聞かれることがある。
 精神的にクヨクヨしないこと、よく歩くことなどのほか、私がもっとも注意していることは、食べ物を腹いっぱい食べず、八分目でやめておくことである。

 若いころはよく食べたが、五十歳を過ぎてからは、もうちょっと食べたいなというところでやめることにしている。

 酒もきらいではないが大量には飲まず、食べ物に好ききらいがなく、なんでもよくかんで食べることも、ここまで元気に過ごせたのに役立っているのではなかろうか。

 それと、忘れてはいけないのが「光線」である。光線といってもわかりにくかろう。宣伝じみるけれども、正確には、黒田光線研究所の光線治療器といい、炭素棒(カーボン)と炭素棒を高圧電流でショートさせその光を体に当てる仕組みになっている。

 女房が肝臓を悪くしたとき、呼出し太郎の奥さんに、当時文京区春日町にあった治療所へ毎日連れていってもらい、治療を受けたのがはじまり。

 私が三十二年秋場所初日に左足のヒ骨を折った(一代記第十八回)直後に治療器を求めた。その後、治療器は二十五年間ずーっと私の居間に置いてある。

 難しい骨折は、なおったあとも毎年寒いころや梅雨どきに骨折個所が痛むという人が多いが、光線をやったおかげか、その後一度も痛んだことがない。

 私は若いころから始終ハナづまりで、綿棒というのか細い金属棒の先にギザギザをつけたものの先に脱脂綿を巻きつけ、その綿に薬をつけ、ハナの穴に差し込んで通りをよくしたものだった。

 先代の春日野さんも同様で、同じ宿へ泊まったときなど、二人してハナの穴そうじをやっていたが、この光線を使ってから、完全に通るようになった。
 春日野さんがもう少し長生きしていたら、光線を教えてあげるところだった。

 光線は、病気をてっとり早くなおすというより、体全体を元気にして病気をやわらげるといったもののようだ。
どんな病気にもじわじわと確実に効果がある。太郎さんの奥さんや女房がいいというせいか、最近は、出羽海家をはじめ一門に光線ファンがひろがっているようだ。

昔からの〃型〃を守れ!
 最近の行司はヘタだとか動きが悪いとかいう人が少なくない。私もその意見について真っ向から反対するわけにはいかない。
 しかし、相撲協会のいまの考え方が続く限りは、昔の技量に戻すことは難しいのではないかと考える。
 現在は、中学を卒業しないとこの社会にははいれないが、行司の修業というものは十五、六歳になってからでは遅すぎる。

 声がわりしてからでは声もつくれないし、カンも鈍り、いろいろな所作を身につけるにもぐあいが悪い。
 私らの時代は、寒声といって、真冬には明け方に川べりなどへいって声がつぶれるまで発声の訓練をしたもので、十四、五歳までにはだいたいの型、所作が身につけ終わっていた。

 それでこそ自然に、格好をつけようとしないでも立派に格好がつくのである。

 役者の子供は小学生でもよくて行司はダメというのがうなずけない。義務教育とか児童福祉法とかもあろうが、せめて小学校を卒業したら行司にしてもいいようにならないものだろうか。

 力士はあまり若いうちにけいこをやりすぎるとよくない面もあるが、行司の修業は若いころから始めるほどいいのである。

 また、私には、行司部屋の独立あたりから、なにもかも悪い方へ悪い方へと向かったような気がしてならない。
 三十三年一月 行司部屋独立
     七月 行司の年寄襲名制度廃止

 三十四年一月 木村庄之助、式守伊之助
        両家を年寄名より除く

 三十五年一月 行司定年制実施
 と続いて、行司の力が弱くなっていったのであるが、前々から述べてきたように、行司部屋独立も、行司に資力があって相撲部屋と同様なかたちになり、立行司、三役行司が若手の指導に当たれればいうことがなかったのだが、そんな余裕はまるでなかった。

 そのうえ、行司が年寄になれず、立行司が部屋を持てないことになっては、若い行司を指導することが次第に出来にくくなっていった。

 私たちの時代は、庄之助と伊之助は部屋を持って弟子の養成に当たっていたし、三役格以下の行司でも年寄になって部屋を持つことができた。

 相撲部屋所属の行司も、上位の行司が下位の行司を親身になって指導してきた。

 ところが最近は、行司部屋が解散になって相撲部屋所属に戻っても、行司は部屋の居侯のようになってしまい、上が下を教えるといういい風習も次第に失われてしまったようだ。
 上位の行司に〃いいものはいつまでも残しておこう〃という意欲がなくなったのでは、行司の型がくずれてしまったのも当然だろう。
 現在の体制では、いい行司、したがっていい伊之助もいい庄之助もまず出来ないといえるだろう。

 昔からのいいものを後世に伝えなければいけないのは力士も同じである。親方衆が、相撲の型を後世に伝えることにもっと意欲をみせないと、相撲取りが次第に弱くなっていくという傾向に歯止めをかけるのは難しいだろう。

 本場所の土俵で勝ち負けにこだわりすぎるのも悪いが、いまの力士はけいこ場でも勝ち負けにこだわっている。
 勝とう勝とうというけいこではなく、上位は下位に十分に取らせ、力を出させてから勝ちにいかなくては、お互いのけいこにならない。
 〃三年後、五年後のためのけいこ〃こそ大切なのである。

 行司も力士も親方衆も、昔からの相撲の型、行司の型を後世に伝えるよう努力し、協会はそれができるような体制をつくるようがん張ってもらいたいものだ。

 引退からすでに二十二年、ほとんどなにもせず、ぜいたくこそしないがたいした不自由もせずに暮らしてこられたのは、大変な幸運と思っています。一代記第一回から最終回まで、二十一回に及ぶご愛読を心から感謝します。     (完)

祖父の一代記について

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読売新聞社 大相撲  1980年三月号

さし絵 伊藤豊一画