二十二代庄之助一代記〈第三回〉


泉  林 八

竹縄絹次郎という人

 私の師匠・竹繩半右衛門は、私が初土俵を踏んだ翌年、明治三十三年に亡くなり、そのあと、世話人(東京の世話人と違い、部屋持ちでない平年寄といったところ。詳しくは庄之助一代記第二回参照)の千年川が継いで頭取(とうどり)となり、竹縄絹次郎となった。

 部屋も、北堀江下通二丁目から一丁目の千年川さんの家に移った。前の部屋から二百メートルほどの距離である。私は、明治三十三年から東京へ加入する大正十一年まで、二十三年間、ここで寝起きしたことになる。

 千年川・竹縄は、いまの青ノ里(二十山審判委員)をもっとごつくして、もっと不細工な顔にしたような男。色が真っ黒で、正直一点張りのガンコおやじだった。体がごついわりには相撲のほうはたいしたことがなく、十両止まりだったという。

 酒が大好きで、毎日欠かしたことがなく、人間はとびきりいいのだが、政策もなにもあったもんじゃない。
 相撲のこと以外はなにも知らず、どこか毅然としたところがあったので、朝日山四郎右衛門さんが、絹次郎さんのことを「乃木さんみたいな人だ」といったことから、アダ名が「乃木さん」とついた。

 竹縄部屋には、前に述べたように、将来は大関といわれた大淀が、大和下市の巡業先てカッケ衝心で亡くなり、小結まで上がった男鈴山も思ったほどには伸びず、その後も、香川県出身の大砲新六が日露戦争から帰ってきて明治四十三年一月に入幕、宮崎県出身の男山十九市が四十四年十月に入幕した。

 大砲は、男鈴山同様小結まで上がったが、男山は女性をつくってかけ落ちしたり、舞い戻ってきたりで落ち着かず、脱落した。

 その後は有望力士もいないではなかったが次第に大部屋に押され、東西合併のころにはもう部屋に力士は一人もいなかった。

 私は、東西合併当時にはすでに東京の行司になっていて、出羽海部屋に所属していた(後述)わけだが、もとの弟子ということで、竹縄夫妻は、合併後はとくに私を頼りにして、なにかと相談を持ちかけてきた。

 竹縄さんが亡くなったのは、東京と大阪が合併したあとの、確か昭和三年。安政二年の生まれだったから、七十三歳くらいで亡くなったことになる。

 その葬式が終わったあと、おかみさんが私に「竹縄を継いでくれないか」といってきた。
 当時の年寄株の襲名料は、壱千円也が相場だったが、もちろん、一介の平幕行司である私が、千円などという大金を持ち合わせているはずもない。

 そこで、出羽海親方(大阪力士一軸改め国岩から、明治三十六年に東京へ出て両国梶之助となり、小結まで進んだ小兵名人力士。

 入間川から出羽海となり、当時は相談役)に相談すると「よし、わしが出してやる」ということで、借りたカネを持って、また大阪へいき、年寄証書をもらって帰ってきた。
 その後二年ほどは、竹縄の株は私が所有していたのである。

 しかし、出羽海部屋の常陸嶽が昭和五年十月限りで引退しようというとき、出羽海さんが私を呼んで「お前が行司をやめていま竹縄になるのなら、
 年寄になってもいいが、もしずっと行司を続けていくのなら、お前が持っている竹縄の株を常陸嶽に譲ってやってくれないか。空き株がなくて困っているんだ」という。

 私としても、自分の株とはいっても、親方のカネで手に入れたものだし、あまり大きなこともいえない。 行司をとるか年寄をとるかといわれれば行司をとるしか方法はない。

 「私は行司で当分がん張ります。常陸嶽なら人間も確かだから安心して譲れます。株はあきらめるから、常陸嶽に回してやってください」ということになった。

 常陸嶽改め竹縄理市は、勝負検査役を長くつとめて公平な審判ぶりで信頼を集め、のちには理事まで出世した。
 昭和三十三年十一月に亡くなったあとは春日野の所有となり、三十五年十一月に信夫山が一場所だけ借りて竹縄を名乗ったが、三十六年一月からは、春日野部屋の鳴門海が引退して、竹縄一行となり、現在に至っている。

大盛況の東西合併興行

話を、明治時代、木村金八のころに戻そう。
 三十六年、大阪で内国勧業博覧会が開催されたのを機会に、六月十七日から、南地五階北手空き地に大きな小屋を建てて、東西の相撲協会が勧進元となり、晴天十日の合併大相撲が行われた。

 若島が三十六年一月に五条家から横綱を許され、東京方では、吉田司家から、常陸山と梅ケ谷に横綱の仮免許がおりた直後ということで、この合併相撲はものすごい人気になった。

 出場力士数は千人をこえ、五年ぶりの合併興行ということで、想像を絶するほどの盛況となった。私は当時満で十三歳。

 若島が率いる大阪方は、大関小島川、琴ノ浦、関脇平右、一ノ浜、小結虎林、大林、平幕に扇海、大木戸、鶴ケ浜ら…。
 東京方は、横綱大砲、新横網梅ケ谷、常陸山に関脇国見山、朝汐、小結谷の音、若湊、平幕荒岩、稲川、太刀山、両国、緑島、逆鉾ら…。

 その初日、若島に挑戦したのが緑島だった。この人は、のちに年寄立浪となって、双葉山、羽黒山の二横綱と大関名寄岩を育てて取締に出世したが、当時は入幕したばかりの新鋭。一六六センチ八○キロの小兵ながら押し相撲で出足が鋭く、はたかれても前へ落ちないので有名な力士だった。

 その前の夏場所三日目、回向院で、常陸山を押しまくり、負けたけれども善戦したというので、若島に合わせたら面白かろうというので割りが組まれたものだった。

 立ち合い、緑鳥が弾丸のようにぶちかましてくるのを、若島はポンポーンと四、五回突きはなして、この辺でもうよかろうと、さっとはたいたところ、緑島はのめりながらもよくついていって、若島の右足にもろにだきつき、もたれ込んでしまった。

 若島がやや無造作にはたいたのが敗因だったが、相手を知らないための敗戦といえる。大阪の町では、この一番に、チリンチリンと号外が出るさわぎになった。

 翌日から立ち直った若島は、稲瀬川、鶴ケ浜(熊吉・東京方)を倒し、四日目は太刀山と水入り熱戦の末、引き分け。

 そして迎えた五日目、対荒岩戦は、名人対名人の興味ある一番ということで大変な前評判となった。これが合併相撲最高というか、本場所でもめったにみられない、すごい相撲になった。

 荒岩が立ち合い、いきなりやや左へ変わり、右足を飛ばして十八番のけたぐりにいった。
 若島は右足をけられて大きく傾き、もう少しで手をつかんばかりになり、ちょいと突いたら倒れる体勢だったが、荒岩もすっかり体勢を崩してしまい、急には向き直ることができない。

 立ち直るのと向き直るのがほとんど同時で、土俵の真ん中でばったり右四つに渡り合った。

 それから大相撲になり、若島の上手投げ、荒岩の外掛け、切り返しなどがあったあと、若島がゆさぶるように右からあおっておいて、左から上手出し投げを打つと、荒岩はたまらず土俵上にすわり込んでしまった。

 そのあと、若湊、朝汐を破り、国見山と引き分け、九日目は常陸山と、突っ張りから四つ身になり、上手投げを連発、

 常陸山が体勢を崩しながらものしかかるように浴びせたので同体となり、勝負預かりになったが、これは若島としては精いっぱい、その後も、常陸山にだけはとうとう一回も勝てなかった。

 千秋楽には梅ケ谷と対戦。梅ケ谷が泉川にためて持っていこうとしたとき、土俵を右へさっと回って寄り返し、ついで左へ回って右のけ返しをみせ、梅ケ谷がのめるところをあざやかに引き落とした。
 結局若島は、六勝一敗二分け一預かりの成績をあげ、大阪方総帥としての面目を保った。

大木戸と鶴ケ浜が活躍

 大木戸もよくがん張った。
 初日、海山をたったふた突きで、突き倒し、二日目は、突っ張りをかいくぐられ、緑島が一気に押してくると、土俵に詰まったが右をこじいれ、うっちゃり気味のすくい投げで逆転した。

 緑島はこの場所すごい元気で、この大木戸からの敗戦以外は全勝、結局、九勝一敗だった。

 大木戸は、そのあと、国見山、梅ケ谷、常陸山に負け、両国と引き分けたが、七日目には太刀山を倒した。
 がっぷり右四つから大相撲となり、太刀山がつったとき、大木戸のまわしがゆるんだのでつり切れず、仕方なく寄ったところ、大木戸の左上手投げが決まった。

 支度部屋で、太刀山の兄弟子の国見山が、行司の木村庄太郎を「お前が、ゆるんだまわしを締め直さんから負けたんだ」といってしかりつけているのを見た。

 稲川にも勝ち、九日目には駒ケ嶽を激しい突っ張り合いから突き倒し、千秋楽には朝汐に負けたけれども、五勝四敗一分けとなり、大阪方第一のホープであることを証明した。

 鶴ケ浜(亀吉・大阪方)は、一七三センチ、九五キロぐらい、当時としては中肉中背の力士で、鳥取の産で左手の中指と薬指がなかった。

 手取り力士で、突っ張りがあり、変わり身が早く、けたぐり、とったりもあって、左四つに組んだら外掛けばかり。呼び込んでおいてすばやく掛け倒すタイミングが実によかった。

 国見山、両国、荒岩、太刀山、逆鉾をたて続けに倒し、五勝四敗一預かりの成績をあげたのだから立派なものだった。

 七日目に緑島と対戦、外掛けで攻めると、緑島がパッと足を引いたので空振り、緑島の下手ひねりが決まったが、やはり緑島のほうが役者が一枚上だった。
   
強かった若島権四郎

 梅ケ谷は九勝一敗、常陸山は耳をちょっと手術したということで、来阪が遅れ、三日目から出場して七勝一預かり、国見山は六勝二敗一分け、朝汐は八勝二敗だった。

 懸賞の大銀杯は、東京方は緑島、大阪方は若島、同じく化粧まわしは、東京方は下位ながら十戦全勝の有明、大阪方は縁ケ浜が獲得した。

 当時でも、東京と大阪の間には力量の差はあったけれども、それでも、若島、大木戸、鶴ケ浜以外にも、平右が太刀山を、扇海が朝汐、国見山を、熊ノ音が太刀山をといったぐあいに倒し、かなり対抗できた。

 このあと、合併大相撲で、名古屋、津、京都、神戸から、四国、九州を回った。 翌三十七年二月は、東京の常陸山一行と大阪相撲が合併して、あちこち巡業し、東京では呉服橋で興行した。

 同年十月からは、常陸山・稲川・駒ケ嶽一行と、若島・扇海・大木戸一行との合併巡業を小田原、静岡、名古屋、和歌山で行い、大盛況。十一月には大阪南地で九日間の興行があった。

 常陸山は、大木戸、扇海、若島らに勝ち、雷山に負けて八勝一敗、駒ケ嶽は、扇海、大木戸に勝ち、若島に負けて六勝一敗二預かり、若島は常陸山に敗れただけの八勝一敗、大木戸は、稲川、朝汐、両国、逆鉾を倒して七勝二敗だった。

 以上、合併興行での若島の成績をみると、常陸山には分がなかったけれども、他の横綱、大関とは互角あるいはそれ以上ということで、

 若島の横綱推挙には東京協会も賛成したため、東京の加判を得て吉田司家に申請、三十八年四月、正式に吉田司家から横綱を免許され、大阪協会初の司家横綱が誕生した。
    
中国・上海へ海外巡業

 三十八年七月、日露戦争が終わった直後、私は、幕内の相見潟勘吉、鞆ノ浦音吉を両大関にした四十人ばかりの小相撲一行の一員として、中国の上海へ海外巡業した。満で十五歳の時である。

 行司は、幕内格の岩井清之助と私の二人だけ。奥田サーカス、名古屋の女芝居、それにわれわれの相撲一行、三つがいっしょになっての興行だったが、神戸から船に乗って一昼夜で門司に着き、門司から二昼夜で上海へ着いた。

 上海の張家公園に公会堂があり、そこで寝泊まり、自炊して、一か月ほど生活した。掛け小屋をつくって、当時としては珍しい電気をつけ、夜興行だった。お客はほとんどが日本人で、入りはあまりかんばしくなかった。

 一か月間の興行も終わりに近づいたころプロレスのサンテルー行と合併して興行しようじゃないかという話が持ち上がり、レスリング形式で一日、相撲方式で一日やることに決まった。

 幕下の糸錦と松林が柔道初段だということで、彼らをレスラーと対戦させようとしたが、松林は、柔道衣を着せてくれるのならやるがはだかではご免だというので、仕方なく糸錦がパンツー枚でレスリングをやり、コテンコテンにやられてしまった。

 翌日は、朝日山部屋の十両鷲ケ嶽が、大きなレスラーをあっさり突き出し、もう一番取ろうとしたが、レスラーのほうが水ばかりをつけて仕切り直しをくり返すので、取組が始まらず、とうとう一番しかやらずに打ち出した。

 レスリング形式でレスラー、相撲方式で力士が勝つのは当たり前で、つまらない試合だったが、この二日間、お客はいっぱいはいり、そのあとの一週間は、立派な旅館 松崎洋行というのに泊まることができ、ごきげんだった。

 帰りも、奥田サーカス、名古屋の女芝居といっしょに、船で八月に帰国した。
   
土橋際に新・相撲協会

 私が入門したころ、相撲会所が、難波新地五番町−−難波駅の北側、いまの高島屋の北、戎橋筋商店街の東側にあったが、三十八年に、やはり難波駅近く、南側の土橋際に大阪相撲協会が出来た。
 いまの高島屋と、大阪球場のちょうど中間あたり、土橋を渡った右側のところである。

 本場所も、それまでは、いわゆる南の五階空き地に掛け小屋をつくって行われていたのが、三十八年六月場所から、新しい協会の西側空き地に小屋をたてて行うようになった。いわゆる「難波新川土橋西詰相撲定場」である。

 南の五階から二百メートルほど西北にいったところ、やはりお粗末な掛け小屋で、電気もまだはいっていなかった。

 協会が出来ると、ほとんどすべての制度を東京流にまねたので、食事も東京相撲同様、協会でめしの炊き出しをやり、幕下以下は全員が協会まで食べにいった。

 めしはいくらでもおかわりが出来たが、おかずはとうがらしミソにタクアンとみそ汁だけだった。
 こんな炊き出し制度が、四十二年ごろまで続いた。

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読売新聞社 大相撲 1978年3月春場所展望号


さし絵 伊藤豊一画