二十二代庄之助一代記  〈第四回〉

泉   林 八


〃待った待った〃で一時間

 明治四十年六月場所、私は幕下格に上がって、木村金八から木村信之助と改めた。満で十七歳のときである。

 その場所に、こんなことがあった。綾瀬川が関脇で、小九紋竜が平幕の二枚目だったが、この二人が顔を合わせた。一方が突っかけると一方が〃待った〃という繰り返し、互いにジラし合っているうちに 二人とも声が出ないくらいに疲れてきた。かれこれ一時間は過ぎただろう。

 外はもうとっぷりと日が暮れたというのに、まだ待ったが続く。呼出しが高張りぢょうちんを持ってきて四本柱につるし、あちこちにローソクを立てたが、それでも立ち上がらず、結局、勝負を協会が預かって相撲は取らずじまいだった。
 行司はたしか吉岡一学さんで、見ている私のほうまで疲れてしまった。

 そのあとに、大関の相撲が二番残っていたが、真っ暗で取ることが出来ず、そのまま打ち出した。制限時間のないころには、ずい分長い仕切りも見たが、あとの相撲をやめるほどの長いのは、あとにも先にも、これ一度きりだった。

 若島権四郎は、吉田司家から正式に横綱を免許された直後の三十八年六月場所も、優勝に相当する好成績をあげて健在ぶりを示したが、

 八月、大阪と京都で東京との合併相撲を打ちあげたあと、九月の山口県の巡業中、萩から山口ヘ自転車で向かう途中、坂道で転倒し、どぶに落ちて頭を強打、治療につとめたが完治せず、四十年春の全休を限りに引退した。

 その後三場所ほどは勝負検査役として番付に名を残していたが、実際は名ばかりで米子に移って興行師になってしまった。

 若島は、千葉県東葛飾郡原木(現市川)の生まれで、東京・八丁掘育ち。東京相撲に入り、明治二十九年春、満二十一歳で、当時としてはすばらしいスピード出世で入幕。

 男前で、キビキビした取り口だったから、たちまちすごい人気者になったが、人気におぼれて身をもちくずし、改心して一念発起した

 三十年夏、師匠若島(元大関)の名をついで再出発しようとした矢先に運悪く天然痘にかかり、出ばなをくじかれてしまった。

 恩師の霊に顔向けができないとマゲを切り、三十一年四月、熊本巡業中に脱走、まず京都の草風部屋、ついで大阪の中村部屋に入門した。

 すぐ幕内に張り出されたが、心機一転猛げいこに励み、たちまちのうちに大阪の第一人者となった。
 一七八センチ、一一五キロ、突っ張り、けたぐり、け返し、出し投げ、すくい投げなど、ハデな動きの名人相撲で人気を集めた。

 大阪での成績は、十一場所に出場して、七四勝七敗、分け・預かり八、勝率九割一分四厘。小結に上がってからは、

五十五勝三敗、分け・預かり七、勝率九割四分八厘。九場所間で大木戸に二度、一ノ浜に一度負けただけという無敵ぶりだった。
 若島の強さによって大阪相撲は盛り返し彼の人気によって年一場所だった本場所が二場所になった。

横綱大木戸勝手免許事件

 若島がやめると、大木戸森右衛門の一人舞台になった。
 大木戸は、兵庫県菟原郡魚崎村(現神戸市東灘区魚崎町)生まれ、三十六年一月入幕、三十八年一月大関。四十一年六月から四十二年五月場所までの三場所間は、連続して九戦全勝という破竹の進撃だった。

 一八○センチ、一三○キロ、力が強く、もろ手突きの激しい突っ張りがあって、差し身がよく、右四つがっぷりになっても、つり、寄り、投げが強かった。全盛期には、ほとんど突っ張りだけで相手を寄せつけず、たいていは二発で吹っ飛ばした。

 手をにぎらず、開いたまま仕切った。 大関で三場所連続全勝だから、東京だったらもちろん横綱ということで、四十三年春、大阪相撲協会から熊本の吉田司家に対して横綱免許願いを申請した。

 若島のときは、東京協会の加判があって間題はなかったが、今回は、先輩横綱若島の加判だけで、東京協会の同意推薦がないうえ、大阪相撲での成績こそ申し分がないが、合併相撲の成績をみると、若島ほどにはいかない。

 吉田司家では、会議を開いて討議した結果、力量は東京相撲なら大関の下くらい、シリの肉が落ちはじめていて、横綱の強味はないと判断、大阪協会の申請を却下した。

 大阪協会はなおも食い下がり、それでは四十二年十一月の博多での東京大阪合併相撲の結果をみたうえでというところまでこぎつけた。

 このとき大木戸は、高見山、碇潟に勝ったが、平幕の鳳に敗れ、小結伊勢ノ浜に勝ったあと、国見山、太刀山、常陸山と引き分け、三勝一敗三分けの成績に終わった。

 大阪協会は東京の加判なしに再び強引に交渉したが、三つの引き分けは大阪の大木戸びいきの圧力によるものという評判も立ち、結局は完全に決裂してしまった。

 司家の処置に不満を抱いた大阪協会は、四十三年一月五日、大阪協会楼上で、朝日山取締が大木戸に横綱免許状を手渡し、巻き物を授け、式のあと、住吉神社に参拝して神前で手数入りを行い、ついで地取りげいこを行った。露払いは陣幕、太刀持ちは岩友だった。

 これを聞いた吉田家は、相撲の司としての権威をふみにじられたとして大阪相撲協会に対して破門を言い渡し、東京協会も常陸山、梅ケ谷らが司家の門人であるため、大阪とは提携できないという理由のもとに絶縁を声明するに至った。

 大阪も、司家の故実門人だった朝日山、大木戸、行司木村正直らが、司家へ免状を返した。

大阪協会あやまってケリ

 大阪相撲の人気は四十年ごろから次第に落ち目となり、本場所の人気がなく、巡業もほとんど売れない状態、手相撲(協会の自主興行)で巡業をやれば客がはいらず、力士の宿賃や食費が払えない 。
東京との合併相撲が財源の中心になっていたが、東京相撲から絶縁されては合併興行も打てず、ジリ貧になってきた。

 前途に見切りをつけて東京に脱走する力士が相ついだ。
 大関放駒が四十二年七月に脱走したときは、侠客が仲にはいってスッタモンダの末大阪へ連れ戻したが、四十三年三月、再び東京の常陸山に入門、大いにもめたけれども結局東京入りが決まった。(放駒はのち再び大阪へ戻った)

 四十三年には、元関脇綾瀬川、小錦(改め雲竜)、四十四年には、小嵐(改め玉手山)、関脇千舟川、二瀬川(改め鉄甲)、

 四十五年には関脇八陣(改め四海波)も、七、八人の若い者を連れて飛び出す、勝時も東上、大正二年には関脇朝日松、稲川(改め弥高山)が脱走。赤垣源蔵、虎ケ嶽といった幕内の人気力士も東上の動きをみせた。

 東京では、四十二年六月に、観客二万人余を収容できる東洋一の大国技館が完成。ますます隆盛なのだから、力士が東京で相撲を取ってみたくなるのは当然だ。

 大関の脱走も食い止められない協会ではと、力士だけで興行しようという計画まで持ち上がり、大阪協会は混乱と紛きゅうを重ね、崩壊寸前というところまで追い込まれた。

 こうなっては、司家に謝罪し、東京と和解する以外にない。大正元年十一月、東京協会へ司家への斡旋を依頼、東京協会は司家と協議の末

 一、大阪協会は吉田司家に謝罪すること
 二、大木戸は現在の横綱を返却すること
 三、あらためて司家より横綱を受けること
 となり、大阪協会は全面的にこれをのみ、大木戸は十二月に正式に横綱免許を受け、この事件はようやく落着した。

 正式横綱としての大阪本場所初土俵は、大正二年一月場所だったが、大関大錦、平幕の千舟川、二瀬川に敗れて五勝三敗。当時すでに完全に衰えていた。

 そしてすぐあと、和解記念の東西合併相撲が、大正二年二月、東京・両国国技館で十日間行われた。
 大木戸は、梅ケ谷、太刀山に歯が立たず、これまで負けたことがなかった伊勢ノ浜にも負け、朝潮、西ノ海と引き分け、駒ケ嶽と分の悪い預かり、鶴渡を倒し、鳳にうっちゃりで辛勝して、二勝三負二分け一預かり二休みだった。

 そのあと、大阪で十日間、名古屋で七日間,京都で九日間興行されたが、三場所を総合しても、二十六日間で、九勝七敗六分け四休みと、あまりふるわなかった。

 そして、その直後の四月、東京との合併巡業で、呉巡業の前日、安芸の宮島から呉にはいり、そこの料理屋でいっぱいやったとき、便所で倒れて半身不随となった。

 手を尽くしたが回復せず、二年五月、三年一月を全休して引退した。

 大阪本場所の成績は、出場二十場所、一四三勝二○敗、分け・預かり一○、優勝十回、うち全勝五回、勝率八割七分七厘。四十三年以降は衰えが目立ち、
 晩年はパッとしなかったが、全盛期の強さは若島さえしのぐものがあった。

 常陸山にかわいがられ、何度か東京へ行こうとしたが、大阪の一枚看板であるため、大阪協会の役員におがみ倒され、東上の機を逸したのは不運だった。

けいこ相手に恵まれればもっともっと強くなれる力士だった。

失敗に終わった大阪脱出

 私はこの間、四十二年五月に十両格となった。十両になると、向こうズネまる出しのハダシから、ハカマにタビという立派な格好になる。

 巡業で駅から宿まで五町(五四五メートル)以上はなれていれば人力車が出て、名前を書いたノボリを立て、毛布にくるまってふんぞり返ることが出来る。

 なにがうれしいといって、十両格になったときのうれしさにまさるものはない。
 四十四年二月、木村錦太夫と改名、四十五年一月、幕内格にあがった。満で二十一歳のときである。
  明治末から大正はじめにかけての大阪協会の混乱のなかで、若い私の心も大いに動揺した。それは「相撲は東京」という野望であった。

 行司になった以上は、一度は天皇陛下の前で相撲を裁いてみたい、東洋一の両国国技館の土俵に立ってみたいという夢であった。

 天皇陛下の前で裁くのが夢だったなどといったら、いまの若い人には笑われるかもしれない。しかし、私らの時代の天皇陛下は、日本国民の絶対的な存在で、生き神様であった。私は古い時代の日本人である。

 ひそかに東京行きの機をうかがっているうちに大正三年の一月場所が終わった。その一月の末に、私は一人で大阪を去り、東海道を東へ上った。

 東京相撲は、当時の恒例によって、春場所後、全員が横浜の常設館で興行を打っていた。そこで横浜で下車して、

 東京の十両格行司式守政治郎の旅館を尋ね、そこで式守勘太夫(大正十四年の暮れに伊之助を襲名しながら、その十二月二十六日に没し、十五年春の番付に名だけをのせた人)さんに紹介してもらい、勘太夫さんといっしょに東京へ帰り、その紹介で、阿武松部屋に入れてもらうことになった。

 まず東京の地がためをしておいて、改めて大阪協会の了解を得るというのが私の作戦で、阿武松部屋ではもう私を東京行司のように扱ってくれ、二、三日は部屋でお世話になった。

 二月にはいり、名古屋国技館の開館式があり、東京相撲が興行したが、私もこれに参列した。このとき、人力車の私のヒザに乗せてやったのが十二歳のときの二十四代庄之助だった。当時、木村義松という阿武松部屋の豆行司だった。

 この名古屋の相撲で、私はもちろん行司をつとめたわけではないが、大阪協会が許してくれれば、そのまま東京相撲に加入するつもりだった。私は、名古屋から、阿武松親方、勘太夫さんら、人を介して再三、再四、大阪と交渉した。

 大阪を脱走したかたちになっては、私の履歴に永久にキズがつく。私はひたすら円満別離をのぞんで、礼を尽くして交渉を続けた。しかし、大阪ではどうしても許してくれない。

 私へは「認めない、帰ってこい」東京の協会へは「錦太夫を返してくれ」の一点張りである。

 阿武松親方も「これはどうしようもないな。帰らなければまずいことになるかもしれん」という意見で、私は、これ以上の迷惑を双方にかけることをおそれて、複雑な感情を胸に、大阪へ帰ることにした。

 私に軽卒を許さなかったのは、やはり幕内行司のプライドであったろう。大阪に戻った私は、詫びをいれることもなく、しかられることもなく、すぐに巡業に出た。当時大阪の協会は、私をひき止めるだけが精いっぱいで、私をしかる力もなかったようだ。

 しかし、私は、こうなったからには、大阪相撲のために、私の出来る限りの努力を注ごうと決意して、再び土俵に立った。


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読売新聞社 大相撲 1978年4月春場所総決算号


さし絵 伊藤豊一画