二十二代庄之助一代記〈第五回〉

泉   林 八


三田尻の旅館で人質に

 大正三年の九月二十日ごろ、山口県三田尻(いまの防府市)で、秀の海幸右衛門、男鈴山長八を大関とする小相撲を組んで、手相撲の巡業をやった。

 当時の大阪相撲は不人気の連続で、巡業をやりたくても買い手がつかず、仕方なく大阪協会が巡業一切をとり仕切る、いわゆる手相撲がほとんどだった。

 しかし、この巡業は、天満宮の祭りにあわせたものだけに協会も自信満々。私と、呼出しの太郎さんが十日ほど前の九月十日ごろに三田尻の宮市天神へ先乗りとして乗り込んだ。

 四、五十人の小相撲とはいえ、ひとつの興行を打つのだから、普通なら、先発の私たちも、五円や十円のカネは持っていくはずだが、そのころの協会は文字どおり火の車だから、そんなカネは持たされちゃいない。

 宿屋への手金も、明け荷を質に入れて都合する始未。それでも「私は幕内格行司の木村錦太夫、呼出しといっしょに先乗りで来ました」と、五厘のカネもないのに、偉そうな顔をしてさっさと部屋へ通ってひと休み。

 そのうえ、当時私は満で二十四、太郎さんが二十六歳という遊び盛り。太郎さんがいっちょうらのあわせ、私が帯をかませて遊びにいってしまった。

 ところが、興行をやってみると客足はさっぱり。あがりもスズメの涙で、あわせや帯を請け出すどころか、一行の宿賃や小屋代まで払えない。こういうときの責任は一切先乗りが負うことになっていて、いろいろ話し合ってはみたが、どうにもならない。

 次の土地からカネを送るといっても、次の興行地が遠い鹿児島と聞いては、宿も用心して、首をタテにはふってくれない。

 こうなったらヤケみたいなものだ。「相撲が終わったら、カネなんかうなるほど出来るんだ」と、大ぼらを吹いた手前、仕方がない、

 親方衆に、鹿児島へいったらすぐに電報為替でカネを送ることを約束してもらい、そのカネが到着するまで、どちらかが人質として宿に残ることになった。

  「あんたは年は若いが、幕内格行司だし、もっともらしいところがあるから信用が違う」

 などと太郎さんにおだてられ、私が残ることになってしまったのである。 その宿は深野旅館といった。旅商人とか旅まわりの役者とか、そんな客が多く、泊まって二食食べて三十五銭くらいの宿賃だから、まあお手軽な安宿だった。
 四、五日待ったがカネは来ない。十日たってもダメ。

ひと月たっても音さたがない。私はもう観念してしまい、それからは宿帳の帳つけをしたり掃除をやったり、番頭のようなことをして居そうろうをきめ込んだ。

 「いらっしゃいませ」とやったり「ちょいと木村さん、あれやってちょうだい」
 といったぐあいで、働いたわけだが、この宿の人たちはみんななかなか親切で、 用のないときはご主人が鉄砲さげて鳥うちに連れていってくれたり、正月にはちゃんとお雑煮まで食べさせてくれた。

 翌年の一月まで、四か月近くもそこにいたが、そのうち一月場所が始まってしまったので気が気じゃない。

 なんとかカネを送ってくれという手紙を、大阪の友達に八方出したら、日ノ出岩という人が十五円送ってくれた。この人は高田川部屋の力士で幕内までいった人。私と同県の香川県出身で廃業後は堀江検番の取締をやっていた。

 そこで私は、宿のご主人に話をして「私がいつまでここにいても払えないから、本場所も始まったことだし、帰してくれないか。
 大阪へ帰り次第、協会なり組合なりに談判しで必ず払うから、どうか帰してください」というと「いいでしょう。カネは返せるときに返してもらえばいい」ということで勘弁してもらった。

 この宿へ十円だけ返し、ほかの者たちが泊まったあとの三軒にも、一応断りをいって、残った五円であわせと帯を請け出し、親切に感謝しながら大阪へ帰り着いた。

 それが、場所の中日、六日目だった。 そのときにはもちろん太郎さんたちも帰ってきていたので話を聞くと、あの足で鹿児島へいったが、かんかん照りでお客が珍しくはいっているというのに、カネがなくて船会社に荷為替で着いている明け荷を受け取ることか出来ず”入れ掛け”(興行中止)にしたりで大失敗。
 琉球(沖縄)ではまあまあだったが台湾に渡ったのが大誤算で、さんざんのご難だったという。

 「それじゃ私のほうがよかったよ」といおうと思ったが、みんなに悪いので、私も大変だったような顔をしていた。
 巡業で、宿賃のカタに人質にとられることは、当時の大阪相撲では珍しいことではなかったが、四か月もの長期に渡ったのは私ぐらいのものである。

 残りの借金は、深野旅館ともう三軒に、小屋代、税金で、七十円ちょっとあったが、大正八年か九年、東京の鳳一行と合併巡業で三田尻へいったとき、高田川取締に話してようやく全額払うことが出来た。
 宿の主人は「木村さんのおかげで、あきらめていたカネを払ってもらった。こんな立派な人はいない」とほめるんだから、私も面食らった。いまだったら、訴えられちまうところかもしれないのに、ずいぶんのんびりした人たちだった。

若き日の失敗の数々

 大正初年は、東京相撲同様、大阪相撲でも、一月と五月に年二場所を消化していたが、四年五月場所は、全員が北海道巡業に出たため、本場所は中止になっている。

当時、東京相撲では、五月の夏場所が終わると、北海道で巡業したが、大阪の一行が東京とぶつかったり、あとになったりするとまるで勝ちめがない。そこで四年には東京が五月本場所をやっているころに、北海道で巡業を打とうという話になった。

 このとき私は、ずっと先発をつとめたが、最初の興行地は函館だった。高岡から船で函館まで、一昼夜ぐらいでいったが、汽車よりずっと安かった。

 函館から、岩内、小樽、札幌、岩見沢、苫小牧、帯広など回って、そのあと、青森、盛岡、仙台で興行したあと、二つに別れたが、大阪相撲としては珍しいほどの入りが続き、黒字の興行だった。

 大正六年夏は、元尼ケ崎の間垣親方が組長、太刀風、野州山を大関とする、五十人ほどの小相撲を、間垣親方に一行の相談相手になってくれないかと頼まれ、途中から参加して手伝った。

 このときは、常陸太田で合流しようとして行ってみると、もう出発したというので那珂湊へ行くと、また出発したあとだということで、高萩でようやく追いついた。

 そのあと、北海道を回り、内地へ戻って、釜石、気仙沼に続き、岩手の岩谷堂(現江刺市)ヘきたとき、チョコレンパン(ばくちのこと)でスッテンテンになり、明け荷を質にいれてしまった。

 装束がはいっているので十円借してもらってばくちの借りを返したわけだが、さあ、相撲が近づくのに行司をやることが出来ない。

 なんとか間垣親方にわけを話して受け出してもらったが、まことに汗顔の至りだった。間垣親方は「あんたを私の相談相手にと思ってとくに来てもらったのにあんたがこんなことじゃあ…」とこぼしながら十円貸してくれた。
 それなのに若いころというのは仕方のないもので、二、三日して宮城県の亘理へ来たときにまたやってしまった。
亘理の勧進元からチリメンのヘコ帯をかたに十円借りてチョコレンパンに出掛けたが、いっしょに出掛けた呼出しの織太郎ともども、スッテンテンにかもられてしまった。

 翌日になって帯なしで道中するわけにもいかず、そうはいっても問垣親方にまた十円借りるわけにもいかない。

 仕方がないから織太郎と二人で勧進元の家へいって頼んでみようということになり、家へいってみると小料理屋へいっているということで、その部屋まで押しかけていき「必ず大阪へ着き次第十円送りますから」と、帯を返してもらった。

 この勧進元は太っ腹で「わたしがあんたの帯など持っていたって仕方がない。若いうちはいろいろなことがある。十円のことなど忘れてもらって結構だ」といってくれた言葉に甘えて、結局この十円はとうとう返さずじまいだったと思う。
 いま考えてみると、よくまあこんなずうずうしいマネが出来たもんだと、あきれる思いである。

新世界に大阪国技館

 大正六年十月、大阪国技館を新世界に建てる創立総会が開かれた。

 株式組織で、資本金は二百万円だったと思う。この新国技館の建設に、もっとも積極的だったのは、協会取締の朝日山親方と、庶務役の木村越後さんだったが、朝日山親方はこのことに命をかけるほどの熱意をこめながら、大正五年七月十一日に五十歳で亡くなった。

 はじめこの国技館は、大阪土地株式会社の社長の宮崎さんという人が力をいれていたが、手を引いたため、

 一時は行きなやみ、その後、親方の苦悩をみかねた有光丑太郎という有力者が現れ、この有光さんが、山本藤助、山本重蔵などという金持ちを動かして、着手寸前までいったところで、朝日山親方が亡くなったのてある。

 結局、朝日山取締の遺志は生かされ、大正七年二月八日に起工して、八年八月に落成した。五百一坪(一六五六平方メートル)、収容人員一万、当時のカネで五十万円を要したという。協会も土橋から、この国技館の中に移された。

 八年の九月十二日、開館式が盛大に行われた。当日午後二時、吉田追風がまず清祓片屋開口の式を行い、ついで大錦−宮城山による三段構え、朝日山−陣幕による神相撲があり、古式七番相撲、相撲故実の言上があった。

 引き続き、余興として、大錦、宮城山以下、大阪方の取組十五番、鳳、大錦、栃木山以下、東京方の取組十番があって、午後六時に閉会した。

 翌十三日から十日間にわたって、大阪国技館開館記念の東京・大阪合併大相撲が、はじめて、晴雨にかかわらず、挙行された。

 なんでもこの国技館を建てたときには、国技館建設会社の役員たちが、別に力士の養成所をつくり、大阪医大の構内にけいこ場を設けて、科学的、医学的に相撲をけいこさすという画期的な計画も生まれたようである。
 この養成所にはいる資格は「十五歳以上二十五歳までで、五尺七寸(一七三センチ)もしくは二十貫(七五キロ)以上のもの。または右の三件を具備せずとも、力士として特珠の天品ありと認めたもの」という条件だったようだ。
 大阪相撲にとっては、最後の鼻息の荒い時代といえる。

 しかし、国技館は株式組織で協会のものではなく、協会が場所ごとに借りるかたちであり、屋根は両国のをまねして丸屋根なのに、底辺は四角ということで、あまり見やすくはなく、大阪相撲だけで興行したときはいつも見物はガラガラだった。

 国技館開館式の前、大錦大五郎が、大関八年の地力を買われて、大正七年四月に、吉田司家から横綱を許された。

 左四つの地味な取り口で、両まわしを引けば地力があったが勝ち味が遅く、東京との合併相撲では東京の横綱、大関にはほとんど通じなかったが、温厚篤実の人格者として尊敬された。

 吉田追風も、大錦を評して「彼が片屋(土俵)に上がって立った瞬間の品位は満点である」といった。
 六年三月には東京方の大錦卯一郎が横綱を許されているので、このときは東西に、同じ「横綱大錦」が並んだことになる。

 国技館建設の父といわれる朝日山さんは十二代目。力士名を岩ケ谷岩松といい、明治二十七年四月に入幕。二場所目の二十八年十月、三枚目に進んで朝日山岩松(のち四郎右衛門)となり、その場所限りであっさり年寄専任になり、取締まで出世した。

 大正五年に亡くなり、六年一月、大関大綿が朝日山大五部となり、十三代目を襲名したが、二場所だけで、七年一月には弟弟子の関脇二瀬川に譲って大錦に戻った。

 二瀬川の十四代目朝日山四郎右衛門は、のち大関に上がり、年寄専務となって取締になり、大正十五年の両協会の合併のときにも努力され、検査役から理事になった。

 昭和十八年二月に亡くなると、小結の二瀬川が二枚鑑札となって十五代目。のち関脇に上がって引退した。
 その後の朝日山は代々早死にで、関脇高津山が北陣から十六代目、二枚目二瀬山が大鳴戸から十七代目、小結若二瀬が北陣から十八代目を襲名している。

 なお、大錦は大正十一年一月場所限り引退したあと、検査役などをつとめたが、東西合併のときに廃業、大阪の曾根崎新地で「京糸」というお茶屋を経営していて、昭和十八年五月十五日に没した。

師匠は名行司木村越後

  私が最初の手ほどきを受けた行司さんは岩井正朝であるが、もし「師匠は?」と聞かれれば、大阪きっての名行司といわれた木村越後をあげる。

 この人は非常に厳しい人で、”土俵に上がったら、目をつけるのは土俵のはし〃目八分が体に隙をつくらない〃〃名乗りのときはうちわのはしにめをつける〃

 〃立ち上がったら、残ったではなく、ハッキョィ〃といった作法から、まわしがゆるんだときの掛け声と飛び込みかたまで、厳格に教えられた。私の次の二十三代庄之助になった正直君も越後の弟子だった。

 この人は、明治四十五年五月に十一代目木村玉之助となり、大正五年一月に木村越後と改めた人で、のちには検査役もつとめ、協会の参謀として勢力があった。

 この越後が、玉之助になったばかりのとき、東西合併相撲に出た。

 当時は東京に庄之助、伊之助、大阪に玉之助と、三人の立行司がいたが、そのときに、越後が「東京の庄之助より玉之助が上になっては悪例が残る。

 あなたはあくまで庄之助なんだから……」といったところが、庄之助が「いえ玉之助さん、あなたは東京におっても当然庄之助になる人だったが、大阪へ行かれて玉之助になられたんだから…」と、

 結局、庄之助が中入り前の結びをやったときは玉之助が中入り後の結び、翌日はその逆というように交互にやった。

 相撲のほうではかなりの力の差があったのに、行司は東京と全く同格にして交互につとめることが出来たのも木村越後の力だった。
 大正十一年八月、五十八歳で物故されたが、私はこの人に、ひとかたならぬお世話になった。

 越後さんで、こんなことがあった。

 大正七年の春、大錦、小染川の組合が、東京の鳳、千葉ケ崎の一行と合同して台湾に巡業した。
 このとき、
 東京の花形で、関脇昇進が決まっていた真砂石が、台北興行の千秋楽に発熱し、台中に乗り込んで台中病院に入院したが、大腸が破裂して、手当てのかいもなく、四月六日に客死した。

 そのとき、残留組の私たちが、台湾から受け取った第一報は「マサゴ キウシス」だったものだから、大阪では「越後急死す」と早合点して、越後さんの留守宅に弔間客が殺倒し、一時は大さわぎになった。

 台湾にも再三再四弔電が発せられたので折りかえし「エチゴ ブジ、シンダ ハマサゴ イシ」と返電してきて、無事に収まった。それでも、現役力士の旅先での死は、大関駒ケ嶽以来の珍事だというので大した話題になった。

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読売新聞社 大相撲 1978年夏号夏場所総決算号


さし絵 伊藤豊一画