二十二代庄之助一代記 〈第六回〉

泉  林八


ついに大阪相撲を廃業

 大正三年に、一度、大阪相撲を抜けようとして失敗したことのある私の〃東京への夢〃は、その後、しぼむどころか逆にふくらむ一方で、大正十一年になって、ついに決心の腹は決まった。

 私も当時は、満で三十二歳になり、木村玉之助、岩井正朝、木村清之助につぐ、上から四番目の行司に出世していたが、大阪にいつまでいてもラチがあかない。
 当時の大阪相撲は、やくざの親方が取締だったりして、相撲興行の方法なども、東京と比較にならないほどでたらめで、まずい。

 親方衆も、相撲では食えないせいもあるが、岩友さんがお茶屋、朝日山さんが呼び屋と興行師、押尾川さんが炭屋、鏡山さんが仕立て物屋といったふうにアルバイトに夢中。

 呼出し太郎さんもうどん屋をやっていた。したがって、本業の相撲のほうは自然おろそかになる。力士も、ばくちに精を出す者が多く、けいこ量も少なく、東京との実力の差は開く一方だった。

 本場所をやっても、お客さんはせいぜい千人どまり。地方巡業の請け手がなかなかみつからない。たまに興行してももうかったためしがない。

 黒字になるのは、東京との合併相撲だけというありさま。
 地元大阪の花柳界も、大阪力士にははなもひっかけない。合併相撲になると、芸者衆が、栃木山だ、大錦だ、あるいは、浦の浜だ、土州山だといって、
 東京力士に大さわぎをするのだから大変な違いだ。独身の私でさえ食っていけない。
 このままでは、大阪相撲は自然消滅への道しかないであろう。

 若い野心は、年齢とともに次第に薄れていくことはわかりきっている。いまこそ東京相撲へ移るチャンスと考え、虎視たんたん、その時機をねらった。

 十一年三月、新世界の国技館で、東西合併相撲が行われたとき、東京の幕内格行司式守錦太夫を大阪の旅館に尋ねたが、私が話を切り出さないうちに「あんた、東京へ来たらどうです」といってくれたので、大いに意を強くした。

 式守錦太夫は、山形出身で、本名は刀根亀吉、昭和二年春、三役格に上がって式守与太夫と改め、七年十月、十六代目式守伊之助を襲名したが、庄之助にならずに、十三年五月限り引退して年寄立田川となり、協会理事までつとめた頭のいい人だった。

 その翌日、国技館で「以前から仲よくしていた、やはり東京の幕内格行司、木村左門という人に、私の決意を相談してみた。

 左門さんは、当時、入間川取締(両国梶之助)の秘書役をやっていたが、大正十三年春場所には、行司をやめて立田川を襲名している。錦太夫の前の立田川である。

 その左門さんが「あんたの決心はいいと思う。しかし、東京と大阪には規約の取りきめもあることだから、大阪を円満に廃業することが、話をうまく運ばせる早道だと思う。それさえできれば、私が責任をもって入間川取締にお世話しよう」といってくれた。

 この前の失敗でこりている私は、その点ははじめから慎重を期したいと思っていたので、ある日、越後さんにじっくりと相談を持ちかけてみた。

 越後さんは、私のいうことにじっと耳を傾けてくれて「よろしい。東京へ行きなさい。このままいったら、大阪相撲はシリすぼみで、前途は暗い。東京へ行ったらしっかりやれよ」と励ましてくれた。

 ついで、師匠竹縄絹次郎親方にもわかってもらい、私は五月場所後、大阪相撲協会に対して正式に廃業届を出した。

 その後、私と同じく粂川の世話で竹縄部屋にはいってきた松林という力士が、廃業して、大阪・生野区金利寺町でフロ屋をやっていたが、私は十一月いっぱいまで、そこに居候して、三助の手伝いや、フロ桶洗いを手伝ったりして、ぶらぶらしていた。

常陸山と木村越後の死

その間、六月に常陸山関の出羽海が、八月に木村越後が亡くなった。

 私はこのころ、出羽海部屋にはいることが内定していたので、頼っていくべき当の出羽海取締の急死は、失業中の私にとっては大変なショックであり、続く、私にとって行司の師匠というべき木村越後の死もまた大きな驚きであった。

 私が相撲を見はじめてから、現在までの間に、強い力士といったら、なんといっても、常陸山、太刀山、栃木山、双葉山、大鵬の五人がズバ抜けていた。

 この五人の強さ、を比較するのは、どだい無理な話だが、私の感じでは、常陸山関がもっとも強かったような気がしてならない。

 相手の声でぬっと立って、相手に十分に相撲を取らせてから、おもむろに泉川にためて振り飛ばすといった取り口で、風格とか威厳といったものがすごかった。

 〃角聖〃とか〃御大〃とかいわれてうやまわれ、引退して出羽海になると、たちまち取締にあがった。この出羽海の死はショックだったが、しかし、間もなく、元両国の入間川取締が出羽海を継ぐことに決まったので、私にも再び希望の灯がさし込んできた。

 入間川親方は、もとは私と同じ大阪相撲で、九(いちじく)九之助から、一軸九八郎と改名して、私が初土俵を踏んだ明治三十二年六月に入幕、続く三十三年六月には国岩九八郎と改めて六勝二敗一分けの好成績、

 次の三十四年五月は五勝二分け一預かりの土つかず、続く三十五年六月は、東小結に上がって七勝。すばらしい好成績をあげたが、意を決して上京、常陸山の門にはいり、両国梶之助と名乗って、三十六年春、幕内格に付け出された。

 一六五センチ、九○キロの小兵ながら、奇手縦横、一本背負い、たすき反りなどで太刀山を四度も倒し、小結まで上がった。明治四十五年春限り引退して入間川となる。

 この入間川さんが出羽海の六代目を襲名することになったので、大阪相撲に理解があり、木村左門さんが秘書役をやっていたことでもあり、私もホッとしたわけだ。

 十二月になって、新出羽海取締からの要請があって、私も出羽海一門の巡業に加わることになった。 大陸巡業から帰ってきた大錦・栃木山一行がいる紀州の新宮巡業が皮切りだった。

 私は、天保山(現大阪港)から船に乗って新宮入りした。そこで出羽海親方に対面し、各関取衆には、山科親方から「こんど出羽海部屋にはいった大阪行司の木村錦太夫です」と紹介された。

 そのあと、山田、松坂と巡業したところで「お前、先発にいけ」というので、大和下市、橿原、岡崎、三島と先発にいって、十二月二十二日に東京へ帰った。

 先発は、数日前に巡業地へ行って、板番付、顔ぶれ(取組)、宿の入り口にはる、力士、行司、年寄などの名前、十両以上の力士、行司の人力車の名札などを書き、 二日ほどで仕上げると、次の土地へ移って、また同じことをやるのである。

三河島事件にぶつかる

 大正十二年の新春を迎え、春場所から、東京の行司としてデビューできるものとひそかに期待していたが…その矢先、三河島事件にぶつかった。
 春場所の初日に先立つ一月八日、力士会は、総会席上で、協会に対する次のような要求を決め、提出した。
 一、従来、引退・廃業の際の養老金として、協会から支給されるものは、横綱一万円、大関七千円、    幕内五千円、十両三千円だったが、これを倍額とすること。

 二、歩方金は、これまで、本場所収入の一割を当てていたが、それを一割五分に増額すること。
 三、一度十両に上がれば、たとえ幕下に落ちても、相当の処置をすること。

 協会では、十日早朝から緊急役員会を開き「目下の財政状態では要求には応じがたい」と回答。力士会は、当日午後三時から会合を持ったが、協会のあまりの誠意のなさに、強硬論者が続出。

 協会の「初日が十二日に始まるのだからこの間題は場所後に解決したい」という提案をけり、横綱(大錦、栃木山)大関(千葉ケ崎、常ノ花、源氏山)
 立行司(木村庄之助、式守伊之助)を除く全員が結束、十一日には上野駅前の上野館にたてこもり、気勢をあげた。

 横綱ら、いわゆる七人組は、両者の仲介に立とうということで、一応力士会とは別行動をとることになった。

 協会は、立浪(緑島)浅香山(八島山)宮城野(鳳)の三年寄を、新聞記者団とともに上野館に送り、力士会代表の鶴ケ浜、三杉磯、太刀光、司天竜と会見させ「場所後に必ず解決するから」と説得につとめたが、

 力士会は”妥協の余地なし”と、前三か条の要求に代え、十一か条の新要求を提出した。

 協会は、ここに至って力士会を除外し、七人組と幕下以下で、予定通り十二日から本場所を興行することに決定、不出場者は脱走と認めて、破門除名することとし、力士会に交渉断絶を声明した。

 横綱、大関に、力士会を抜けた幕内伊吹山、十両御西山を加え、横綱土俵入りと幕下以下の取組だけの初日を開場したが、上位の取組がないのでは、当然のこと、大変な不入りだった。

 力士会は、十三日、上野館を出て、幕内力士三十六名、十両力士二十九名、行司十四名、計七十九名そろって、三河島のデアテルミー工場に立てこもり、土俵を築いてけいこを始めた。

 その後、七人組の仲裁も成功せず、結局、ときの赤池警視総監が調停に乗り出し、十八日の夜半に至って「無条件で総監にまかせる」ことで解決。日比谷の平野家で手打ち式が行われた。

 ところが式後、別席に引きあげた横綱大錦は、自らマゲを切り「横綱として調停に乗り出しながら成功をみず、局外者によって解決したことは遺憾であり、横綱の面目がつぶれた」として、そのまま大相撲界から去ってしまった。

 十二年春場所は二十六日、返り初日となり、幕下以下の成績はそのまま採用し、興行することになった。
 結果は、横綱栃木山が優勝。協会は、栃木山と同点の好成績をあげた大関源氏山(のちの西ノ海)を横綱に推篇し、伊勢ノ海を熊本の吉田家へ派遣して免許を申請することにした。

 春場所打ち上げ後、赤池警視総監は、力士会と協会の意見の折衷案を作成。十日間興行を夏場所から十一日間とし、

 その収入増を養老金増額にあてることをきめ、幕内五割、十両二割五分増しとし、従来十両は八場所勤めなければ養老金の権利が生じなかったのを、今後は一場所でも十両を勤めればその資格を得ることになった。

 この間私は、ずっと横網町安田公園近くの出羽海の自宅に居候していたが、この事件のために、私の初土俵が遅れることになった。

 紛騒の責任から、取締の出羽海、井筒、雷以下、二十九名の幹部が総辞職し、選挙によって、取締には、井筒、雷のほか、高砂が新たに選ばれた。

 そんなことで、夏場所も、私の立場がはっきりしないまま見送られてしまったのも無理はなかった。
 春場所後は、名古屋から、九州、台湾、そして上海へ巡業した。
 上海ははじめての人が多いなかで、私だけが十八年ぶり二度目ということで、このときばかりは知ったかぶりの大いばりであった。

こんどは関東大震災!

 夏場所は、栃木山がインフルエンザのため三日目から休場、新横綱源氏山も負傷のために途中休場し、大関常ノ花が優勝。
 場所後は、出羽海一門は、朝鮮(現韓国、北朝鮮)満州(現中国東北地方)方面の夏稼業だった。

 この巡業で私は、終始先発として働いたが、まだ行司ではなく、名目は〃書記〃だった。釜山−鳥山−大邸−大田−郡山−京城−元山−平壌−鎮南浦−安東−奉天−開原−新京−鞍山−大連−旅順と回り、ずっと先発だったので、一行とは最後まであわずじまいだった。

 内地へ戻り、福井県から新潟県を回って長野市にはいったところで、私は再三のショックにまたも打ちのめされた。それは、九月一日、東京中を灰にした関東大震災である。

 私はそのとき、出羽海一門の巡業の先発として、長野市の旅館で板番付を書いていた。長野でもグラグラッと、かなりのゆれようだった。

 「すぐに東京へいって、様子を見てきてくれ」ということで、式守与太夫(のち十五代伊之助かう二十代庄之助、松翁を許された人)といっしょに東京へ向かった。

 熊谷で汽車が止まり、おろされたりしてようやく東京へたどりついてみると、あたり一面、焼け野が原だ。故常陸山・出羽海の別荘が大塚にあるので、そこへいくと、両国の出羽海さんが来ていて、そこに一晩いっしょに泊まった。

 翌る日、本所相生町の出羽海部屋のあたりへいってみると、部屋はみるかげもなく全焼し、さしも威容を誇っていた東洋一の両国国技館も焼け、鉄さんだけの無残な姿を横たえていた。

 部屋の蔵だけは焼け残っていて、その中にほうり込んでおいた大阪の開荷二つが助かった。その中にいれてあった衣装が何着か健在だったのは、冬に向かうときだっただけに、うれしかった。

 持参していった米一斗と塩ジャケを出して、調理して食べ、蔵の中で親方たちとともに三日寝たが、その間に、親方衆や、行司の式守錦太夫(刀根さん)らが、おいおい集まってきた。

 そのあと、蔵の中にしまってあった荷物をトラックに乗せ、稲毛海岸にある常陸山の別荘へ運び、すぐ巡業の先発にたった。飯田、松代、上田などを回ったあと、大阪、高野山、広島から四国へ渡り、高知が最後で、東京へ帰った。

 その後二年間ほどは、出羽海部屋は、いまの伊勢ノ海部屋のあたりにバラックを建てて生活した。

名・実ともに東京行司に

 大正十三年春場所は、とりあえず土俵を名古屋に移して決行と決まり、中区大池町の空地に仮設国技館を建てて興行した。
 この場所ようやく私の位置が決まった。

 私の新しい名前は、木村林之助。地位は幕内のどんじり、私は涙が出るほどうれしかった。大阪の幕内が、東京でも同じ幕内格であつかってもらえたのである。

 私は死にものぐるいで再出発の第一歩を踏み出した。うちわを持つ手に自然と力と汗がこもった。緊張もした。しかし、差し違えはやらなかった。

 この場所、優勝は横綱栃木山だったが「準優勝の大関常ノ花が横綱に推挙された。

 東京の復興は意外に早く、夏場所は修復成った両国国技館で行われた。もし「東京」という点でいうなら、私の東京相撲の第一歩はこの場所ということになり、番付は名前がのったのもこの場所が最初だった。

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読売新聞社 大相撲 1978年名古屋号名古屋場所総決算号


さし絵 伊藤豊一画