二十二代庄之助一代記〈第八回〉

泉   林 八


まず台覧相撲の感激
 私はさきに「天皇陛下の前で相撲を裁くのが若いころからの夢だった」と書いたが(庄之助一代記第四回)この最大の願いは東京へきて、あっけないように実現した。

 東京相撲の番付にはじめて私の名・木村林之助がのった大正十四年春場所、その千秋楽の翌日、五月二十七日は第十九回の海軍記念日にあたっていたが、
 摂政宮殿下、つまり今上天皇が築地の水交社にご台臨になり、祝賀会場で将官以上にご昼食の陪食をおおせつけられたのち、午後一時から、裏庭の芝生上につくられた相撲場で、相撲をご覧になったのである。

 今上天皇は、ご幼少のころから大変な相撲好きであられ、皇孫殿下のころには明治四十三年夏場所四日目、四十五年夏場所三日目に両国国技館へお運びになり、大正にはいり皇太子になられてからも、十一年までに都合七回相撲をご覧になっている。
 したがってこれが十回目のご観戦であった。

 摂政宮殿下のまわりには、閑院宮以下の各官同妃殿下、東郷平八郎元師ら日本海軍の重鎮がたがキラ星のごとくに居並び、まことに壮観であった。

 しかし緊張していたせいであろうか、このとき、だれとだれの相撲を裁いたのやらウソのように記憶がよみがえってこない。

 ただ、鬼風−東関、外ケ浜−若太刀の二番ではなかったか、そして、大阪では到底考えられない光栄に、緊張の半面、どこかうれしいような雲に乗ったような気待ちになったことだけははっきりと覚えている。

 つづいて十四年四月二十九日、摂政宮殿下は、第二十四回のお誕生日を迎えられ、その祝賀式のあと、赤坂東宮御所内で大相撲をご観戦になった。
 このときは、たぶん各国大公使などの外交官であろう、外人がたくさんみえていて、それを徳川家達貴族院議長がお世話されていた。

 当日の模様を申しあげると…力士がたまりにはいる東西の花道には、青竹の四つ目垣を結い、東に菊、西に桜の造花をさして飾り、花道の途中に敬礼場をもうけ、力士たちは出入りに際してそこから玉座にむかって最敬礼した。

 装束も言上もすべて古式にのっとり、力士の名乗りも呼出しはなく、言上行司が土俵下から

 「東の方、武蔵の産、鬼風」
 「西の方、越後の産、藤ノ川」
 と呼びあげる。そして土俵上の行司はふだんと変わらない。
 このとき私は、幕内前半、勝負検査役交代までの言上行司を土俵下でつとめた。

 勝ち力士には、花道の造花を行司の手から渡される。
 栃木山−西ノ海の結びの一番のあと、幕内力士常陸島の弓取り式、ついでお好み相撲四番があって千秋万歳となったわけであるが、私にとってはただ夢中の一日であった。

 この相撲に奉仕し、東京御所の中にはいった協会の年寄、力士、行司などのうち、現在生き残っているのは私ただ一人となってしまった。

 当日の相撲奉仕に対して、宮内省よりばく大な拝領金をたまわったので、これに感激した協会では、無意味に消費してはおそれ多いということで、これによって賜杯を謹製することを徳川家達公を通じて宮内省に出願。
 お許しが出たので、これが長く協会の宝となることになった。

 本場所の最高優勝者にこれを拝戴させ、賜杯の台に優勝者の名を刻み、永久にその栄誉を表彰することになった。
 これが現在の天皇杯であり、重さ約三十キロ、高さ百八センチ、口径三十三センチ、容量三十六リットルという立派なものである。

 東京相撲協会では、賜杯をひとり占めにするのはおそれ多い、同じ相撲道に励む大阪相撲協会にもこの光栄を分けてやりたい、
 同時に衰微しきった大阪を救い、協力して国技相撲道を守り抜こうと、出羽海梶之助取締らが大阪に呼びかけ、合同実現の運びになるのであるが、これについてはあとで述べることにする。

海軍記念日の天覧相撲
 時代は昭和にはいり、三年の五月二十七日は、築地の水交社で、海軍記念日の祝賀会の余興として、天覧相撲が行われた。明治二十五年七月九日、麹町永田町の鍋島侯爵邸における明治天皇の天覧相撲以来、三十六年ぶりとあって、盛んなものだった。

 私にとって今上天皇の相撲ご覧のための奉仕はこれで三度目になるわけだが、天覧相撲としてはもちろんはじめてだったからさらに身のひきしまるのを覚えたものである。

 従来、天覧相撲の場合は「待ったなし」であったが、かねてからのおぼし召しにより、このときからは一般本場所並みに、水もつけ、待ったもできるようになった。

 競技方法も、天覧相撲としてははじめてのトーナメント方式優勝戦を行い、結局優勝は横綱常ノ花の頭上に輝いた。常ノ花は、水交社社長岡田啓介海軍大臣から、軍艦三笠砲鋼製太刀ひとふりをちょうだいした。

 この海軍記念日の水交社(水交社は、四年に築地から芝公園に移された)天覧相撲は、この年を第一回に、その後毎年のように行われ(七年は春秋園事件後のため、十一年は戒厳令のため中止)十二年まで続けられた。参考までに、優秀力士を掲げると次の通り。
 昭和三年@常ノ花A玉 錦B豊 国
    四年@武蔵山A宮城山B能代潟
    五年@常ノ花A玉 錦B常陸岩

    六年@玉 錦A能代潟B高ノ花
    八年@玉 錦A武蔵山B高 登
    九年@番神山A磐 石B金 湊

    十年@武蔵山A双葉山B玉 錦
   十二年@双葉山A清水川B名寄岩
 昭和四年、陸軍記念日の三月十日には、九段の偕行社において天覧相撲が行われたが、このときもトーナメントの優勝戦方式で、大関大ノ里が優勝している。
 しかし、陸軍記念日のほうは一回限りで、次回は行われなかった。

宮中で天覧相撲ご奉仕

 五年四月二十九日、天皇誕生日(当時は天長節といった)には、宮城平河御門内覆馬場において天覧相撲が行われた。宮中での相撲天覧は、遠く相撲節会(七三四〜一一七四)以来、七百五十余年ぶりのことで、大相撲が職業化してからは実にはじめてのことである。

 ここに協会の「天覧相撲拝記」があるから、そのおもなところを抜き書きしておくことにする。

  一、方屋地鎮祭、方屋開き(10時5分〜35分)。吉田長助、木村庄之助、式守伊之助、木村玉之     助、木村善之助、式守錦太夫。

  一、陪覧者着席(午後2時)。閑院宮、閑院若宮妃、賀陽宮、同妃、同邦寿王、朝香宮、同妃、同      竿彦王、正彦王、紀久子女王、湛子女王、東久邇宮妃、北白川宮故成久王妃、同美年子女      王、佐和子女王、多恵子女王、竹田宮故恒久王妃、同礼子女王、李錨公、各殿下。

    東郷元帥、小笠原子爵、入江皇太后宮太夫等旧奉仕者、御縁故者、側近奉仕宮内省職員、皇 族随員、浜口首相以下各国務大臣、同前官礼遇、倉富、平沼正副枢密院議長、金谷参謀総長、加 藤海軍軍令部長、武藤教育総監等、約三百名。

  一、天皇陛下、皇后陛下、皇太后陸下臨御(2時20分)。
  一、横綱手数入り(2時21分〜26分)。東方横綱常ノ花寛市、太刀持ち天竜三郎、露払い武蔵山     武、行司木村庄之助。西方横綱宮城山福松、太刀持ち幡瀬川邦七郎、露払い池田川助松、       行司式守伊之助。

 一、幕内力士そろい踏み(2時27分〜33分)。東方幕内十九名、行司木村正直。西方幕内二十名   、行司木村庄三郎。
 一、横綱三段構え(2時34分〜35分)。東方常ノ花、西方宮城山、行司吉田追風。

 一、相撲取組十九番(2時38分〜3時49分)。
 勝負検査長=高砂、東=春日野、鳴戸、西=岩友、伊勢ケ浜。言上=東・木村善之輔、西・式守錦太夫。
 行司・木村正直
 若常陸(下手投げ)伊勢ノ浜
 池田川(つり出し)常陸島

 行司・木村庄三郎
 出羽ケ嶽(突き出し)潮ケ浜
 綾 桜(上手投げ)朝 光

 行司・木村重政
 新 海(すくい投げ)若瀬川
 常陸嶽(すくい投げ)宝 川

 行司・木村林之助
 太郎山(寄り切り)荒 熊
 外ケ浜(押し切り)古賀ノ浦

 勝負検査長=井筒、東=山科、花籠、  西=山分、陣幕。言上=東・木村正直、西・木村庄三郎。
 行司・木村清之助
 山  錦(押し切り)剣 岳
 清水川(上手投げ)玉 碇

 行司・式守勘太夫
 信夫山(小手投げ)鏡 岩
 幡瀬川(うっちゃり)和歌島

 行司・式守与太夫
 武蔵山(寄り切り)雷ノ峰
 朝 潮(突き倒し)天 竜

 行司・木村玉之助
 若葉山(肩透かし)吉野山
 玉 錦(つり出し)能代潟

  言上=東・木村林之助、西・木村重政。
 行司・式守伊之助
 常陸岩(つり出し)真 鶴
 豊 国(小手投げ)大ノ里

 行司・木村庄之助
 常ノ花(寄り切り)宮城山

 一、弓取り式(3時50分〜51分)。常陸島。
 一、お好み相撲三番(3時53分〜4時6分)。

 勝負検査長=井筒、東=錦島、宮城野、西=朝日山、武隈。
 行司・式守与太夫
 武蔵山(引き落とし)幡瀬川
 玉 錦(寄り切り)朝 潮
 行司・式守伊之助
 天 竜(上手投げ)豊 国

 一、両横綱けいこ相撲(4時7分〜11分)。常ノ花−玉碇、和歌島。宮城山− 幡瀬川、池田川。   一、還幸啓(4時16分)。
 一、皇族方御帰還(4時16分)。

 一、陪覧者退出(4時20分)。
 私としても、宮中内での天覧ははじめてのことであり、水交社、偕行社のときをさらに上回る感激であった。行司になった喜びをこのときほどかみしめたことはなかったといえる。

蔵前国技館へおなり
 六年の四月二十九日にも、五年と同様、宮中覆馬場において、天覧相撲が挙行された。このときも私は出場の光栄に浴したわけであるが、次に取組を書きとめておく。

 行司・木村正直
 大 島(はたき込み)大和錦
 銚子灘(はたき込み)高ノ花
 大 潮(寄り倒し)駒 錦

 行司・木村庄三郎
 吉野山(うっちゃり)外ケ浜
 若瀬川(上手投げ)綾 若

 行司・木村重政
 宝 川(下手投げ)伊勢ノ浜
 古賀ノ浦(うっちゃり)常盤野

 行司・木村林之助
 雷ノ峰(つり出し)肥州山
 綾ノ浪(うっちゃり)常陸島

 行司・木村清之助
 鏡 岩(寄り切り)玉 碇
 出羽ケ嶽(寄り切り)剣 岳

 行司・式守勘太夫
 太郎山(はたき込み)新 海
 藤ノ里(はたき込み)幡瀬川

 行司・式守与太夫
 信夫山(寄り切り)若葉山
 山 錦(押し出し)錦 洋

 行司・木村玉之助
 清水川(上手投げ)武蔵山
 天 竜(上手投げ)能代潟

 行司・式守伊之助
 玉 錦(きめ倒し)大ノ里
  弓取り式 常陸島
  手さばき 幡瀬川−錦 洋 玉 碇−常陸島
  お好み
 玉 錦(きめ倒し)武蔵山
 天 竜(はたき込み)錦 洋
 清水川(腰くだけ)肥州山
  けいこ相撲
 玉錦−錦洋、若瀬川 大ノ里玉碇、信夫山
(「手さばき」とあるのは二人の力士がいろいろな技を連続してくり出す「初っ切り」をまじめにしたような取組のこと)
 相撲好きであらせられる天皇陛下には、このように何回も大相撲をご観戦になり、おかげで私のようなものまでが、相撲奉仕の光栄に浴すること、昭和にはいって十二年までに実に十一回に及んだわけである。
 しかし、その後は戦争などのため、天覧相撲はずっと途絶えることになった。
 天皇陛下に本場所の相撲をご覧になっていただきたいということは、相撲協会員全員が戦前から考えていたことで、大きな宿願であったが、

 太平洋戦争の終戦後、二十九年秋に蔵前国技館が完成したのを機会として、ご来館をお願いしていたところ 三十年夏場所、これが実現の運びとなり、十日目に蔵前へお運びになったのである。

 相撲節会は、その当時における力士最高の場所であり、本場所ということができようが、江戸中期以後、相撲が職業になって以来、本場所に天皇をお迎えするのははじめてのこと。私たちの感激もひとしおのものがあった。

  このときの御製
  ひさしくもみざりしすまひひとびとと
   手をたたきつつ見るがたのしさ

 当時私はすでに二十二代木村庄之助になっていたため、横綱手数入りの先導をつとめ、結びの一番を裁いたわけである。
 その後、天皇陛下はほとんど毎年一回ずつ蔵前国技館におでましになり、幕内取組をご覧になるのがしきたりのようになったが、私は定年の三十四年まで、都合五回、天覧相撲結びの一番を合わせたのである。
 三十年夏場所十日目
 朝 潮(上手投げ)千代の山
 三十一年夏場所八日目
 千代の山(上手投げ)鶴ケ嶺

 三十二年夏場所千秋楽
 栃 錦(押し出し)鏡 里
 三十三年夏場所八日目
 若乃花(きめ倒し)栃 光

 三十四年夏場所八日目
 栃 光(下手投げ)朝 汐

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読売新聞社 大相撲 1979年1月九州場所総決算号


さし絵 伊藤豊一画