二十二代庄之助一代記〈第九回〉

泉  林 八



うまかった十三代伊之助

 名乗りを木村林之助と変えて、東京の番付にはじめて名がのったのは、すでに述べたようにいろいろなアクシデントもあってのびのびになり、大正十四年春場所であった。
 この番付によると…上から
「木村庄之助 式守伊之助 式守勘太夫 式守与太夫 木村庄三郎 木村鶴之助 式守錦太夫 式守竹治郎 式守与之吉 木村林之助」の順になっている。

 木村庄之助は、十八代。万延元年に石川県金沢市に生まれ、本名を浅野長太郎といった。明治十五年に入門、初名は甚馬、十六年夏場所はじめて甚太郎と名乗り、十八年夏には木村朝之助と改名している。大正十一年春場所、伊之助をとび越して、十八代木村庄之助を襲名した。

 土俵上での掛け声が「のーこった、のーこったあ…」と、ゆっくりしていて、ちょっと不明りょうで、若い行司がよく物マネをやったくらい。激しい相撲にはテンポが合わなかった。行司としてはあまりうまいとはいえないが、声がよくて大きく、よく通った。

 相撲字もうまかったが、それより普通の書が達者で、絵もじょうずだった。
 大正十四年六月十一日、函館巡業中に脳いっ血で亡くなった。数えの六十七歳だった。

 式守伊之助は、十三代。明治二年、東京本所松坂町(墨田区両国)に生まれ、本名鬼頭多喜太。

明治十八年春、式守多喜司の名で番付にのり、二十六年春、二代目式守錦之助となり、三十二年夏、六代目式守与太夫を襲名、
三十三年春、幕内格、三十八年春には三役格となり、大正十一年春場所、伊之助を襲名した。

 与太夫時代(明治三十二年夏〜大正十年夏)は、勘太夫、錦太夫(のち与太夫)とともに名行司三太夫といわれ、実にさっそうたるものだった。
 人物、手腕とも備わり、声がよく、威厳があり、歯切れのいい裁きで評判がよかった。
 大正十五年春場所、十九代木村庄之助となったが、昭和七年、春秋園事件がおこったころに病気となり、五月三十日に亡くなった。

 式守勘太夫は、三代目。明治三年、東京本所横網町(墨田区構網)に生まれ、本名平木兼次郎。十七年夏、式守与之吉の名で初土俵を踏んだ。
 三十二年春、勘太夫を襲名。声がそれほどよくない点、与太夫、錦太夫より劣ったが、
 色白で、動作がキビキビしていて裁きが正確だった。

 私が大正三年一月末に、はじめて大阪から東京へ、希望をいだいて出てきたときは、この人をたよって上京したのだった。
 大正十四年六月、十八代庄之助の死によって十四代式守伊之助となり、十五年春場所の番付に伊之助としてのったが、十四年十二月二十七日に数え五十七歳で亡くなったため、伊之助としては、一場所も本場所の土俵を踏まずに終わった。

のちの松翁・名人与太夫

 式守与太夫は、七代目。明治九年十二月三日、栃木県上都賀郡上奈良部村(鹿沼市上奈良部町)に生まれ、本名名川子之吉。のち八代目伊之助の養子となって後藤姓を名乗る。

 明治十九年夏、はじめて番付に出て式守子之吉、三十二年春、三代目式守錦太夫となり、三十五年春、幕内格、四十二年夏、三役格に上がり、大正十一年夏、七代目与太夫を襲名した。

 識見、土俵態度、うちわ裁き、顔ぶれなど、なにをやっても立派で、風格があり、声よし、姿よし、型よしで、一点の非のうちどころもない名行司だった。
 私も、及ばずながらこの人のマネをすることで上達しようとつとめた。

 顔ぶれなども、動作から姿かたちから、なんともいえず見事なもので、いいなと思ったところを少しずつでもとりいれさせてもらった。

 その通りとはとてもいかないけれども、この人のマネをすることが上達の近道だった。
 大正十五年夏、十五代伊之助となり、昭和七年十月には二十代庄之助となり、十一年春場所には、松翁を許されている。

 松翁は、庄之助の中でもとくにすぐれた人に与えられる称号で、天保期の十代目庄之助、明治中期の十五代庄之助とこの人、長い大相撲史上でたった三人だけ。力士の横綱よりもずっと権威ある尊称である。
 昭和十五年三月九日に亡くなった。
 現式守錦太夫はこの松翁の養子である。
 しかし、松翁が亡くなってすぐに私がひきとって指導に当たったので、私も錦太夫を子供のように思っている。
 錦太夫はいまでも私のところへよくくるが、土俵上の型、顔ぶれの動作など、私の少年時代の師である木村越後の型と、青壮年時代の師といえる松翁の型が、私を通じて錦太夫に伝わっているわけである。

 木村庄三郎は、大正十四年夏場所番付にはすでに名がない。この人に関してはほとんど私の印象に残っていないので書きようがない。
 木村鶴之助は、東西合併を前にして廃業した。この人ともあまり付き合いがなかったが、少なくても土俵上ではあまりさえない行司だった。

 式守錦太夫は、明治二十五年六月二十日に山形市七日町で生まれ。九代目伊之助の弟子で、のち養子になって刀根亀吉。
 明治三十二年夏、式守亀司の名で初土俵を踏み、翌場所亀吉と改め、四十五年春、錦之助、大正十一年春、幕内格に上がり、同年夏、四代目錦太夫を襲名した。

 前にも述べたように、大阪にいた私が、大正十一年三月、東京相撲との合併のとき、宿舎に訪ねていって相談したのが、この人だった。

 このあと、昭和二年春に八代目式守与太夫となって三役格に上がり、七年十月、十六代目式守伊之助になるなど、年齢の割りに出世が早かった。
 頭脳明せきで、事務的能力がすばらしく、話のわかる人物だったが、行司としてはさほど目立つ人ではなかった。
 ふとっていて体が大きすぎ、行司にはやや不向きなところがあり、自分でもそう考えていたようで、上にいた松翁さんにまかせて、故実などは覚えようとせず、土俵祭などは一度もやったことがなかった。

 伊之助にまで上がれば庄之助になるつもりははじめからなかったようで、十三年夏場所限りで引退し、年寄立田川となり、理事にまで昇進した。昭和二十三年十二月三日没。

与之吉が二十一代庄之助

 式守竹治郎は、私が東京へ来るまでは、両国・出羽海の秘書のような仕事をやっていたが、私が来てからは、私が出羽さんの代わりに手紙を書いたり、帳面をつけたり、囲碁の相手をするようになったため、用事がなくなってしまった。
 それが面白くなかったものか、大正十五年春場所限りで廃業した。

 私のために犠牲になったようで、気の毒だなと思ったが、これも仕方のないことだった。
 昭和七年の例の大ノ里・天竜一派の紛擾のとき、関西協会の行司に一時なったこともあったが、式守政治郎や式守義(のちの二十四代庄之助)らが加入すると、
 番付が竹治郎より下になることから、彼らに敬遠されていたたまれず、また浪人してしまった。

 式守与之吉は、本名竹内重門。明治二十二年四月一日、長野県更級郡塩崎村(長野市篠ノ井塩崎)の生まれ。
 明治三十三年春場所、式守与之吉の名で初土俵を踏み、大正十一年夏場所、幕内格に上がっている。
 のち、大正十五年春、四代目勘太夫を襲名、昭和二年夏、三役格、十三年春、十四代木村玉之助、十四年春、十七代式守伊之助、
 十五年夏、二十一代木村庄之助と、とんとん拍子に出世。二十六年夏場所限り行司を引退して年寄立田川を襲名、理事、監事を歴任した。

 双葉山の時津風理事長に用いられた人で行司としてはまず無難な人だった。体が大きく、歴代庄之助の中では、可もなく不可もなしといった存在ではなかったかと考える。
 三十六年一月、定年制のために退職、四十五年十一月二十五日に亡くなった。

  そして最後が、木村林之助。私である。
 昭和七年春、三役格に上がり、十一年春、木村容堂と改名、十四年春、十五代目玉之助、十五年夏、十八代目伊之助、二十六年秋、二十二代庄之助となった。
 三十四年十二月をもって定年退職することになるのだが、私に関してはもちろんのちに詳述する。

ヒゲの伊之助そこつ話

 私が幕内格のどんジリで、私のすぐ下が、十両最上位の木村玉治郎だった。のちのいわゆる”ヒゲの伊之助”である。
 この人は本名高橋金太郎。明治十九年十二月十五日、茨城県那珂郡勝田村(現勝田市)勝倉の生まれ、明治三十三年夏場所、木村金吾の名乗りで初土俵を踏み、大正二年夏に玉治郎となった。

 このすぐあとの大正十五年春、木村庄三郎を襲名して幕内格に上がり、昭和十年夏、三役格、二十六年秋十九代目式守伊之助となった。私といっしょに三十四年十二月、定年退職。四十一年十二月十四日に没した。

 この人は、私が庄之助のときの伊之助だから、付き合いも長く、いろいろな会合でもいっしょになったが、
 昭和三十三年秋場所初日の北の洋−栃錦戦で、うちわを栃錦にあげ、物言いがついて、検査役からあげ直しを命じられながら、自分のうちわは正しいと、土俵をたたいて抗議。

 その結果、出場停止処分となり〃ヒゲの伊之助涙の抗議〃として評判になった。

 硬骨漢だが、若いころは非常にそそっかしいので有名で、勝ち名乗りを「おまえさーん」とあげたり「○○じゃない、△△やまぁ−」とあげて「おまえさん」「じゃないさん」というアダ名をもらっていた。声がかん高いので「カナリヤ行司」というニックネームもあった。

 庄三郎時代、役者が背を高くみせるためにタビのカカトにいれるゴム製の〃つぎ足〃を坂東三津五郎丈にもらい、これを使用して土俵に上がり、そのつぎ足が俵にひっかかって、土俵下まで落っこちたこともあった。

 昭和二十八年か九年二月の名古屋準本場所で、鏡里に勝ち名乗りをあげるとき「玉乃海…」といってしまい、ひょいと顔をみると鏡里だったので、とっさの機転で「…に勝ったる鏡里」とあげてピンチを切り抜けたこともあった。

 他人のことばかりいっているが、私も一度ひどい失敗をしたことがある。これも名古屋準場所で、玉乃海。三十年ごろのことだった。
 玉乃海が、東の塩のところで水をつけている。「片や…」といったところで力士の名をど忘れしたので、東の塩のところをみたのだが、後ろ向きなのでだれだかわからない。

 どうしてもシコ名を思い出せないし、うしろ向きの体をみてもわからない。
 大いに困ったが「片や…」といったまま、いつまでも黙っているわけにはいかず、仕方がないから、ゆっくりと下腹にカをいれて「ムニャムニャ…」といっているうちに、こっちを向いたのをみると、玉乃海だった。
 そこで、ふた声目は「玉乃海」と呼びあげることができた。

 普通なら「かたや、たまのうみたまのうみ、こなた…」となるところを「かたや…むにゃむにゃ…たまのうみ、こなた…」となってしまったわけで、こんな恥ずかしい思いをしたことは、あとにも先にもなかった。

 私と同時代に式守勘太夫の名で行司をつとめた、のちの鏡山勘太夫も、勘太夫時代に、神錦に勝ち名乗りをあげようとして名前をど忘れしてしまった。

 仕方がないから足を滑らして、よろけたふりをして神錦に体当たりして「あんたのシコ名は?」と聞き、ようやく勝ち名乗りをあげたと−−これはご本人から聞いた。

 だれしも一生のうちには一度くらいはこんな失敗があるものらしいが、伊之助さんはこれが多かった。そそっかしい行司で通っていた。

東西が合併、財団法人に

 庄之助一代記第八回でも述べたように、賜杯を東京相撲協会でひとり占めにするのはおそれ多い、同じ相撲道に励む大阪協会にも、この光栄を分けてやりたい、
 同時に、衰微しきった大阪を救い、互いに協力して国技相撲道を守り抜こうと、出羽海取締らが大阪に呼びかけ、合同の話が次第に本格化していった。

 大正十四年七月、大阪市北区堂島にある大阪協会小野川取締宅で、東京代表出羽海梶之助、大阪代表小野川辰蔵、朝日山四郎右衛門、立会人木下東作、加藤隆世、書記役千田川喜三郎らが集まり、両協会の解散と「大日本相撲協会」結成の調印が行われた。

 合同の要項として
 一、東京方年寄八十八家、大阪方年寄十六家、全員をもって新協会を結成する。
 一、大阪方における一代頭取(年寄)の異例は認めぬこと。
 一、大阪方における別格年寄不知火、猪名川、藤島、西岩、北陣は除外すること。
 ただし、そのうち、藤島、猪名川の両家は、東京方にも同名の藤島、呼び声が等しい稲川の両家あるをもって、双方の由来を尋ね、由緒あるものを残して、一方を併合整理する。

 一、東京および大阪の年寄、力士に同名のものある場名は、年寄名を残して力士名を改めさせ、力士同士の場合は下位のものを改めさすること。
 一、力士、行司は、横綱ならびに木村庄之助、式守伊之助(東京)、木村玉之助(大阪)の三立行司を除き、大関以下の全力士、全行司は、すべて無資格とし、実力、資格審査のうえ、新しく順位を決定すること。

 以上が決定した。 資格審査の相撲は、大正十四年十一月十四日から京都八坂新道で十日間、十五年三月十二日から大阪扇町公園で十一日間、同年十月八日より大阪天王寺区大軌電鉄停留所前空き地で十一日間、都合三度にわたって慎重にくり返された。

 そしてその間「財団法人・大日本相撲協会」の認可が、十四年十二月二十八日付けで岡田良平文部大臣の名をもっておりたのである。

庄之助一代記第十回へ行く

ウィンドウを閉じる


読売新聞社 大相撲 1979年3月初場所総決算号


さし絵 伊藤豊一画