呼出し太郎一代記、1

                                 

前原太郎

   

一、巣立ちの頃前編

回向院は青天井

私が呼出しを志して相撲の世界へ飛び込んだのは十一歳の五月、ちょうど明治三十一年の夏場所のことである。

第十七代目横綱小錦八十吉を初め十八代目の横綱大砲万右衛門に大関は東が朝汐、西が鳳凰、以下常陸山、梅ケ谷、荒岩、逆鉾、国見山、大戸平、海山、千年川などの好力士が陸続として輩出した、明治中期の相撲最盛期であった。 

 当時はまだ両国の国技館が建設前で、回向院に青天井、ムシロ張りのかけ小屋をつくって、一月と五月に本場所相撲が行なわれていた。つまり、その頃の相撲は晴天十日間だったが、一日雨が降っていれかけになると、翌日、カラリと晴れ上がってどんないい天気になっても、この日も続けて相撲は中止で、「明目は相撲があるじゃぞオエ」と太鼓を叩いて東京中をふれ歩き、翌々日に返り初日となり、相撲を続けるノンキさであった。
 しかし、ノンキなのは決して相撲界だけではなく、当時の社会もずいぶんノンビリしていた。ラジオがなく、新聞も満足に行き渡っていなかった当時の世間ヘ、相撲があるのを知らせるのはこのふれ太鼓によるほかに方法はなく、万が一この三日目にまた雨が降ると、四日目に再びふれ太鼓をくり返し、場所中に雨が降るとそのつどこの太鼓が回らないかぎり、相撲は中休みになるから、十日間の相撲が、天気が悪い時には四十日から五十日もかかったこともある。

 ふれ太鼓は、朝十時頃に回向院の相撲場を出発。太鼓の打ち方も現在のとは違い、非常にユッタリとしたバチさばきだったので、東京中を回り歩き、おしまいの品川へ着くのはいつも真夜中の十二時過ぎで、それから再び太鼓を叩きながら引き返すと、両国へ帰り着くのが翌朝の二時、もう一番櫓太鼓を打ち出す時分で、それを打ち終えると、もう二時半の一番回りが始まる。
この一番回りというのは、午前三時から始まる前相撲の連中を起こす役目で、拍子木を叩きながら各相撲部屋を回り「一番、一番、一番でございまアす」とドナって歩き、これに対して部屋から「お−い」と返事がなければ、いつまでもこれをくり返して起こさなければならなかった。

オイテケ掘の怪異譚

 当時相撲部屋が点在していた本所辺(今の墨田区内)は、昼間でも狸が出るという下屋敷跡の寂しい野っ原が各所にあって、いまの錦糸掘、割下水(これは大正の大震災後埋められてしまった)はその頃、俗に「オイテケ堀」と呼ばれていた。それはこの掘で魚を釣ると、実におもしろいくらいよく釣れるのだが、そのうちもののけに化かされてしまい、フラフラ近所の原っぱをさ迷い歩き、正気に返って掘へ戻ると、ビクヘ入れといた筈の魚が一匹残らず逃げてしまう……。

 また夜、堀のそばを通ると「オイテケ、オイテケ」と河童が呼んだという話もある。これは、いわゆる本所七不思議の一つだが、もちろんモノノケというのも、河童というケモノの正体もよくはわかっていないのだから、物識り先生にきいても本当のことは判明しない。ともかくこの辺はそれほど寂しい所で、一番回りは子供の私にとって、ずいぶん恐しい苦しいことの一つだった。

 一番回りから帰るとすぐに前相撲が始まり、その呼出しをつとめるのだが、ふれ回りと一番回りでノドはすっかり疲れて声が出ず、夏場所の時はまだしも、寒中の春場所、足袋はだしでふみしめる土の冷たさは格別で、そのつらさは言語に絶するものがあった。 当時の前相撲は、番数が非常に多かったので、待ったなしの飛びつき、呼出し方も現在のとは異なり、東・西の土俵下に呼び出しが一人ずつ控えていて、若者頭の”誰と誰”のさし図通りに、例えば東側の者が”常陸山”と一人を、すると西側の者が”梅ケ谷”と呼び上げ、土俵へ上がった両者はすぐに相撲を始めるので、行司の”梅ケ谷”に”常陸山”という呼び上げがすまないうちに、かんじんの取組の終わっていたことも、再三再四であった。

 夜中の三時に前相撲が始まるが、当時の相撲には仕切り時間の制限がなく、しかも、途中で物言いがつくと一時間近くかかることもあって、現在とちがって打出しの時間が一定しておらず、暗くなるとカンテラやロウソクをつけて相撲を続行、これが巡業先では、毎日がハネ立ちという旅から旅であったため、呼出しはゆっくり寝ることがほとんどできなかった。ハネ立ちは読んで字のごとく、その日興業がすむとただちにそこを出発して、翌日は次の巡業地で相撲をとるのである。

草鞋ばきの巡業

 その頃の社会はノンキであったが、当時の呼出しの修行というものは、現在ではとうてい想像のできぬ激しさで、そのムチは十一や十二の子供だからといって決して容赦せず、まるで犬か描の子同様に扱われた。なお明治の中頃といえば、まだ全国的に汽車が開通していなかったから、巡業はほとんど徒歩で、おむすぴを二つ腰へゆわえつけ、草鞋ばきで太鼓を叩きながら十里ぐらいを歩き、これが毎日の慣例で寝る所もお寺か空家、ひどい時には相撲場の木戸口で寝ながら旅を続けたものである。

 今の若い者たちにこのようなことをしろといったところで、それは絶対にできないことで、もしこのようなことをやろうとしても、現在では周囲がそれを許さないであろう。しかし、われわれはこれを習慣として身につけさせられ、また、こんなエラい世界であることを覚悟して修行に励んだ。当時の苦しい修行は何も呼出しだけがやったものでなく、力士たちも毎朝夜の明けぬうちから猛烈な稽古をした。

 もっとも現在の力士も、場所前だけは夜朝けの猛稽古をしているが、その頃は巡業先でも薄暗がりから稽古を始め、関取連も必ず顔を出し、私を相撲の世界へ入れる橋渡しをしてくれた朝汐(当時関脇)もそれには変わりがなかった。当時の力士の風俗は、その頃の漫画によく描かれていた通りで、ドテラを着て尻を端折り、冷飯草履で両国界隈を闊歩していた。回向院の相撲場のすぐ横に協会があり、その建物は非常に大きく、力士をはじめ協会に関係のある者の食事は、全部ここでまかなわれていた。

 それで幕内の関取には、ついている取テキの分といっしょにその数だけの御飯が渡され、これらの人たちは各自の部屋に持ち帰って食事をするが、関取衆のいない小部屋の取テキやわれわれ呼出し族は直接協会へ出向いて食事した。この協会への出入りには、番付面の階級によってやかましい不文律の序列があり、三段目以上の者は玄関から出入りできるけれども、序二段以下は台所口からしかはいることが許されず、呼出しもこの中に加えられた。

 協会の台所は広間になっていて、そこが食堂で、食事支給係の親方がネジリ鉢巻きで陣取り、膳の検査と各部屋から取りにくる取テキとの応待は、ここにその見本を示すと、
「どこの部屋だ?」
「よし、何人前いれてやれ、お菜はこれだけ、タクアンは何本」
と指図を与え、取テキたちはこれを持って引揚げるのだが、大きなオハチをかかえ、タクアンを繩にゆわえて歩く姿は、世の中がノンビリしていた明治時代とはいうものの、まことに、われわれ相撲社会にのみ通じる一風変わった珍風俗であった。

日清戦争という国と国とでやり始めた大バクチに快勝して、目本の国運というものがメキメキと上昇線をたどっていた。万事に景気のよい話ばかりがコロがっておった。それから六、七年たってまたもう一度始まった大バクチの日露戦争にも、第一軍の小川又次という将軍(師団長・中将)などは、司令官の軍服の上へ三尺八寸の大日本刀を綱でゆわえ、それを地面に引きずりながら悠然と陣頭指揮を続けたという話。それで立派にイクサにも勝てたわけ、すべてが、そういう草双紙式なノンビリした時代のことである。

昔は粋な呼出し姿

 協会で食事をするわれわれは、まず台所へ二列にずらりと並んで座につき、「お上がり」と親方が合図すると、下座から手回しで膳が運ばれ、食事がすむと今度は逆方向へ、「お下がり」と、手回しで膳を下げたものである。食事中の広間は非常に騒々しく、苦しい修行中のたった一つの楽しみな時間でもあった。お菜は甘ミソか辛ミソとタクアンの二品、今から思うと考えも及ばぬお粗末な代物で、私が初めてここで食事をした時「甘ミソか辛ミソかどちらがいい?」と問われて、「甘ミソがいいです」と、もらった時の味が何ともいえなかったので、その次から甘ミソー本やりに決め、かって知ったつもりで、甘ミソだと思い皿にもり上げたのだが、それが辛ミソで(どちらも同じ色をしていた)、辛ミソというのは多量のカラシをきかせてあるため子供の舌に合わず、皿へ残したまま膳を下げたところ、管理の親方にそれを見つかって、
「残したのは誰だ?」
「私です」
「この小僧、食べ残しをするとは生意気だ」と大目玉を食い、
この膳は「お上がりだ」と再び膳が上がってきて、
「食べ残しはいかん。皿に取ったものは、どんなことをしても全部食べなくちゃいかん」
と厳重にいい渡された。しかし、これは無理な注文で、膳を突っ返されても食べられないものはどう工夫してもノドを通らず、泣きの涙でどうしたものかと案じていたら、周囲の取テキが可哀想だからと少しずつスケてくれ、涙といっしょにその辛ミソをのみこんだ。このような経験は、もちろん生まれて初めてであった。

 しかし、相撲社会は厳しかった反面、先にもちょっと書いた通り実にノンビリしたところがあり、親方衆といっても元をただせば田舎からポッと出の相撲取りであり、当時のことだからそれほどの教育もなく、字を書くことさえ知らないくらいだったから、銭勘定ときてはさっばり駄目、その頃盛んに流通していた五銭銀貨で五十銭くらいも勘定をすると、必ず一、二枚は間違う有様であった。ところが、相撲協会はこれらの人々の手で立派に運営されていたのだから不思議でもあるが、またそこは長い伝統の力であったといえるだろう。

 厳しい修行をうけて育った呼出しは、土俵を離れるとなかなかイキな姿で、一番上に唐桟ものを着て、下には必ず柔らかいものをつけ、履物もコッたものを履いた。それゆえ、地方巡業へ出た場合、呼出しが三人も連れ立って歩くと、それは道行く人々の目をそばだてるに十分で、今の呼出しにはとうていまねることができないものであった。時世の移り変わりが激しく世の中がしだいに悪くなり、徐々にイキな呼出しの風俗もすたれて、はなはだどうも残念ながら、現在のようなものになってしまったしだいである。

渡米脱退事件

 時の関脇朝汐太郎関の口ぞえで、明治の時代における呼出しの名人として評判の高い長谷川勘太郎師匠のところへ弟子入りした私は、それから五年、この師匠のもとでみっちりと厳しい呼出しの修行を受けたが、お蔭で土俵上の動作や太鼓の叩き方も板につき、私もどうやら一人前の呼出しとして認められるようになった。

 明治三十六年の末、ちょうど私が入門以来五年目に、昭和七年一月の大ノ里関、天竜関による協会脱退とやや似た大事件が一部力士の間で決行された。この事件に蔭の人となって、裏面から力士たちに離反を扇動したのは、新井銀行の頭取氏である。むろんこの人が金主になり、米国ヘの巡業を条件として力士をくどいた結果、東小結源氏山頼五郎(初名今泉・津軽の人)をはじめ、幕内力士の尼ケ崎以下、野州山、それに緑川、玉ケ崎、明月、新川、旭竜など十両陣のイキのよいところ(当時の幕内は東西各七名)に、行司の木村大三を加えた同勢四十名あまりが、協会が渡米許可を与えないので、一同は浅草に家を借りて籠城し、ここから翌年の春場所に通った。

 私もこの年十六歳になって、生意気ざかりであり、血気にもはやる年頃であったので、「アメリカ」と聞くと未知の世界に対する興味と、遊覧気分が手伝って、
「太郎いっしょに行かんか?」
とすすめられるまま、一行の呼出しの一人として、ただちにこの謀叛組に加盟した。ところが、折悪しくアメリカ行きの日程が決まる頃から日露の風雲急を告げ、国内が戦争前のあわただしい雰囲気に包まれてしまったので、相撲取りがのんびりとアメリカ漫遊もできず、いきおいこの状勢から渡米は中止となった。

 アメリカ行きが中止と決まると、これは脱退した者のやり損で、われわれが余りにも浅慮であったことになり、脱退した協会への復帰もかなわずに夏場所後には除名されその年は早々過ぎてしまった。この間、脱退組の一行は何もすることがなく、大きな身体をもてあましながら無駄飯を食べさせてもらっていたが、いかに金主が銀行の頭取氏とはいえ、四十人の口を養って行くには費用がかさみすぎ、やむなく全部の同勢が小さな一行をつくって、地方を巡業して歩くことになった。この時から、私の実に長かった苦難と放浪の日が始まるわけである。

東北への巡業

 さて出発する段になり、私がハタと困ったのは、まだ満足な着物が一枚もないことで、しかたなしに、世話人から一円の前借りをして、浅草の古着屋から「木村瀬平」のサインを染め出した浴衣を金六十銭也で購入、それを着用して巡業隊に加わった。

 一行は、すでに秋風も立ち始めた明治三十七年九月に東京を出て、福島をふり出しに仙台から奥州路へはいり、旅相撲を続けて十一月の末に本州の北端青森へたどりついたところが、冬の早い東北へ相撲を打って出たのが誤まりで、青森での興行に小屋もでき上がり、明日は初日という前日のタ方から雪が隆り始めた。

 この地方の雪は一度降り出すと、来年までやまないという困った代物で、野天の相撲場ではいかに無理をしても取ることができず、その晩のうちに市内の芝居小屋を借りうけて、予定通り初日の相撲を行なうことになった。おそらくこれが屋内での相撲の始まりだと思うのだが、このわれわれの妙案も、時期はずれであったために大失敗となり、見物の数が相撲取りの数と同じぐらというはなはだ閑散としたものであった。

 そこで、田舎へはいった方が興行的に成功するかもしれないと、黒石から秋田県の能代へのコースをたどったが、どこも雪で皆目見物がはいらず、ためしに夜相撲でもやれば入場者があるかもしれないと、土俵のぐるりにかがり火をたいて相撲を強行したが、雪のつもった夜中の相撲見物は、さすがの東北人にも興が沸かないらしく、入場者わずかに二十人で、夜相撲の結果もかんばしくなかった。
「雪が降っては、戸外での野良仕事ができぬから見物が入るだろう?」
と考えたのもわれわれの誤算で、東北人は、雪が降ると家の中に閉じこもるのが習慣である。行く先々で、不入りに悩まされたわれわれ一行は、この一番にと期待をかけた能代の相撲にも失敗して、ここで全く一文なしのからっケツとなり、

「あんた達は宿賃が払えないのだから、出て行ってくれ!」
と宿屋からイヤ味をいわれる始末で、それでも行く先の目当てのないわれわれは強引に旅館にふみとどまったが、宿の方もこれ以上損をかけられてはと、翌日から飯を食べさせてくれず、子供の私だけは特別待遇をうけ、女中さんに、
「姉さん飯をくれや!」
といったら、
「あんただけは子供だから、こっちへおいで……」
と台所へ連れていって、こっそり飯を食べさせてくれた。 一行の首領である源氏山は、この苦境を何とかして打開せんものと、組合の廻しを全部質に入れ、一か八かの勝負だとバクチを打ちに行ったが、すっかりスッてしまったのか、あるいはパクチヘ行くといって出かけたのは口実で金を持ち逃げしたものか、出て行ったままどこへ姿をかくしたか行方知れずになり、再びわれわれの前に姿を現わさ
なかった。実にヒドいことを平然とやってのけた首領どのである。

 ここで少しばかり、この不人情な首領の話を書き加えておこう。青森県・津軽の国は今も昔も変わらぬ相撲国で、その前後にもパカに力が強かった大関一ノ矢藤太郎をはじめ、この源氏山頼五郎や千歳川政吉、北海大太郎、外ノ海善助、浪ノ音健蔵、鬼竜山雷八、千年川亀之助となかなか立派な力士が輩出した。

北海は四十八、鬼竜山も四十五歳まで相撲をとったそうだから、近年名寄岩関の三十九などはまだ若い方かもしれぬ。さて問題の源氏山、これは力も強く相撲も巧者で、左を差して頭を敵の胸につけるとテコでも動かず、その下手投げは壮烈無比であったという

 いま私の手元に故増島信吉さんの『相撲人国記』があるから、念のためにちょっとのぞいてみる。増島さんも源氏山を「色の浅黒いニガみ走った好男子で、優に大関になれる素質をもっていながら、ほとんど稽古をしなかったため関脇で終わった。小錦の横綱に源氏山の太刀持姿は、気品といい態度といい、あんな魅力のある太刀持は類がなかったが、有名すぎるほどの道楽者で、明治初年の名力士両国の伊勢ケ浜が没した時(三七年一月)源氏山はその位牌を持ったのだから、伊勢ケ浜相続人の噂も立ったのに、脱走して遊び人の仲間に入り、哀れな最期をとげたそうである」と惜しんで書いておられる。

 ところで一方、残された四十人は、相撲取りが命よりたいせつな廻しまで取り上げられ、しかも宿を追われて何をする目当てもないまま、どうにかなるだろうと、あわれハカなくも能代の雪の中へ投げ出されてしまった……。

呼出太郎一代記 ページ11より24まで
ベースボールマガジン社
挿絵、伊藤豊一画

巣立ちの頃、後編へ続く

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