呼出し太郎一代記、12

前原太郎

六、憂さつらさ、後編

無情な師走の風

 文なしではどうにもならない。とにかく台北で何とかしようと、台北の目代の所へ泣き込んで見ようということになった。台北の井上という仕事師の小頭が、相撲協会の台北の目代なので、ここへ私が頭を下げに行ったのだが、ちょうど師走なんで井上さんは腰に繩をつけて、忙がしそうに門松を作って歩いている。これをつかまえて、

「台東から花蓮港、宜蘭と方々歩いて来たんですが、どうも不景気、ほうほうの体でやっと台北まで帰って来ました。帰っては来ましたが、相撲取りに今夜食わせる飯もない騒ぎなんで……何とかして下さいよ」

「しょうがねえな。まあ何とかしなくちゃなるめえ、ともかく山城屋へ行こう」
山城屋というのは後家さんの旅館で、行司の喜三郎の色女なのである。そこへ出かけて行った。

「おっかさん、これこれこういうわけで、どうやらここまで来たのは来たけれども、どうにもならねえんだ。しょうがねえから花相撲をやろうと思うから何とか応援しておくんなさいよ」

「そうかい。それァ困ったねえ。うちなら何とでもしようじゃないか、十人ぐらいなら泊ってもいいよ」
というので、どうにかそこへうまく落ち着くことはできたが、さて台北の町では、もう師走でもあるし、相僕なぞといったってどこでも相手にしてくれない。

 台北から一里ほど離れたところに、東京でいえば亀戸みたいなちょっとした町がある。そこの芝居小屋が空いているから、そこへ一つ相撲を持って行こうじゃないか、そいつはよかろうということになって談判に行った。向こうの親方は、「相撲かい。そいつはもうかるだろう、いいともいいとも、お世話しましょう」

「お願いします」
と、土俵から、飾りつけから、何から何まですっかり向こうにおっつけてしまった。さア大相撲が来るというので、招待状を三円も刷ったのだから大した数だった。この招待状をずっとバラ撤いて、幾らかのお土産をせしめようとしたのだが、さていよいよ相撲をやって勘定してみると、驚いたことにはたった十六円七銭しかない。二日間で三十円しか上がっていない。三十円の金では、招待やら車賃やら、何かと支払ったら残りは一文もなくなってしまった。

 いよいよ師走も押しつまって無情な風が吹いて来たが、こんなことで金の顔はさっぱり見られない。玉之助を初め押尾川以下、顔の色もまっ青にして、困った困ったと頭を抱えていやがる。一方、相撲取りはヤイヤイいい出す……。

「太郎さんや、どうも困ったね。どうしたらいいだろう。相手になるやつはないし、どうしようかねえ」
「どうもこうもありゃしねえ。何とかしなくちゃしょうがねえ」
「これじゃ何ともしょうがありゃしない。首でもくくるよりしかたがないや……どうしたもんだろう」
「冗談じゃねえ、そんな弱いことをいったんじゃだめじゃないか」

「だめだっていったって、ゼニは五厘もありゃしない。宿屋じゃ飯を食わしてくれないし、この海は越せないし……」
「ナニッ、この海が越せねえなんてことがあるもんか。おれなら越してみせるよ」
「何だって、おまえが越せるんなら越してみろ。大きなこといったって、どうにもならんじゃないか、よ」
「おッ、やるとも…大丈夫やってみせる、安心しろいッ」と、私はみんなの前で大見得を切っちゃった。

「オオ、まわし持って来い」
「まわしなんか、質屋へ行ったってとってくれやしない。どうするんだ」
「どうもこうもあるもんか。おれに任しとけッ」 土俵入りのまわしを三本、ちゃんと風呂敷に包んで私は立ち上がった。

ひとり台湾に残されて

 その時分、台湾から内地通いの船は、宝莢丸というちょっとした船だった。それが、明日の十二時に基隆を出帆することになっている。
「オオみんな、何でもいいから明日の朝早く行って船に乗っちまえ」
「船に乗っちまえといったって、基隆まで行く汽車賃がないよ」

「ナニッ、汽車賃ぐれえ、ふんどしを売って行け。何でもいいから船に乗っちゃえ。何とかいったら、あとから太郎さんが来ますといやいいんだ……」
 みんなもその気になって、汽車賃をこさえて宝莢丸に乗り込んでしまった。実はこの宝莱丸の佐藤という事務長さんが、私を可愛がってくれて、いつも私が三等に乗ると、二等に連れて行ってくれたりしていた。私はさっそく船に行って佐藤さんに会うと、

「おお、太郎さんか。台湾の場所はどうだったい?」
「いやもう、どうもこうもありゃしません。どこへ行っても大失敗で、基隆までやっと帰って来ました……。実は事務長さん、みんなを船には乗っけたんですがね、 ゼニが一文もないんですよ。大阪の協会まで行きさえすれは何とかなりますから、事務長さんの顔で何とかして下さいよ。ここにまわしを三本持って来ましたから、この三本で何とか神戸まで連れてって下さいよ」

「太郎さん、それァいかん。そんな乱暴しちゃだめじゃないか」
「だめだって、もう乗っかっちゃったものを、引きずりおろすわけにも行きませんや。係りが違ってもあんたは事務長さんだ。船賃だって二十円だ、わずかなもんだ。大阪の協会に行けば何とかなるんだから、事務長さんの顔で何とかして下さいよ」

「しょうがないな。よし、それじゃ、おれが船から事務所の方へ電話をかけてやるから、むこうの責任者にうまく話をしたまえ、おれがうまくいってやるから……」
「お願いします」
と、まわし三本を後生大事に事務所に持って行って、いろいろ話をしてくれたが、なかなかラチが明かない。そのうち時間ばだんだん切追して、話をしているうちに、船はポーッと出帆してしまった。

 船は出てしまった。みんなはその船に乗って行ってしまった。私一人がとうとう、基隆に取り残されてしまったわけである。
「とにかく、このまわしを置いて行きますよ。大阪へ行けば必ず金を送ってくれるはずですから、お払いします」
「間違いないかね?」
「間違いありません……」

 事務所でも船は出てしまったし、私一人をちょっと見たって金がありそうでもないし、とうとうしかたなしに、それでやっと話をつけることができた。
 一人ポッンと取り残された私は、どこへ行くにも八方塞がりだ。行司の喜三郎の色女の山城屋という後家さんの宿屋へ行って、
「おっかさん、二三日で大阪から金がくる。そしたら他の所は払わないでも、おっかさんの所へは払うから頼むよ」

と、この旅館に居候をキメ込んで、大阪から金の来るのを待つことにした。ところが、三日経っても、四日経っても何の音沙汰もない。

台北−大阪‐台北

 関取衆や親方は帰っても、私一人が帰らないものだから、うちの者(妻女)は非常に心配して、「親方もっと考えて下さいよ。うちのおやじはバカだけれども、あれでも一家の主人ですわ。

私というものもあるし子供もありますよ。台湾のことは組合の責任でしょう。何とかして台湾に残っているうちの人を帰して下さいな。金が要るなら、わたしを叩き売ってでも送ってやって下さい……」
と、えらくうちのやつにやっつけられたということだ。親方もしぶしぶ協議の結果、送って来た金が、何と三十円である。旅館の支払いだけでも何百円とあるし、船賃だけでも一人二十円だ。

三十円では、私一人の船賃もそこそこである。これには、さすがのんきな私もすっかり参ってしまった。
「おっかさん、こうなっちゃ人間どうにもしょうがない。正月になるというのに金は来ないし……。ワシは何とかして一度大阪へ帰って、必ずおっかさんとこの金だけは返すから、そこは三十六計なんとかだ、どうかオイラを黙って逃がしておくんなさい」

「しょうがないねえ太郎さん、あとはまア何とかごまかすから、そんなら思いきって、あんたずらかってしまいなさい」
「ありがてえ、明日の出帆で逃げ出すから、あとはよろしく頼みますよ」
と、予定通りそのあくる日の船で大阪へ逃げて来てしまった。皮肉なもので大阪に来てみると、その年の大阪の本場所ができないという不景気だ。協会でもいろいろ協議の結果、大場所を台北へ持って行こうということになった。

台北で大場所七日間を打とうというのだが、私が行ったらそれこそたいへんだから、私はどうしても行くまいと決心していた。けれども協会では、太郎を逃がしちゃ台湾の場所はうまく行かない。あいつをどうしても引っ張って行かなくちゃァと、とうとういや応なしにふんづかまって、再び台北に行くことになった。

 ところで台北の本場所は、連日相当の入りだった。けれども毎日のように、
「太郎さんいませんか……」
と、木戸に聞きにくるやつが、二人三人とあるものだから、協会でも、
「太郎、お前どうしたんだ?」
「どうしたって。おれは何も、自分の欲得でやったんじゃない。組合のためにしたことだ。本来なら、組合から賞与金をくれてもいいくらいに苦労しているんだ」
「お前、それじゃ金を払わなくちゃだめじゃないか」
と、協会の幹部は収まりがつかない。押尾川初めみんないるのだから「太郎が悪い」とはいえない。そうかといって、全部の金をその場で払えるわけがないから、どうしたものだろうと、みんな頭痛鉢巻だ。私は、

「何もおれが、自分のためにやったわけじゃない。みんな組合のためにやったことだが、わっしに考えがある。招待状三百枚下さいな」
「三百枚の招待状でケリがつくか。それじゃやろう」
と、三百枚の招待状をもらった。私はこれを持って旅館組合の親玉の所へ行って、「実は大将、この前はたいへん御迷惑をかけたが、相撲協会というのは、こうこういういきさつになっていて巡業も分離だし、いま協会にいったって協会じゃ金をくれない、そうかといって組合には金がない。百両のカタに一回三円ずつの三百枚の招待券をおたくに差上げますから、これを金に直してみんなに分配していただきたい」

「そうかい。それじゃ太郎さん、それで行こうや……」
 とうとうそんなことで、やっと前の借金のカタをつけることができたのである。

 その台北の本場所は見物も来たし、相撲取りも小遣いははいるし、大喜びだった。五人抜きとか、ショッキリとか、番外がたくさんあるものだから、相撲さんは小遺いには困らないし、それから内地へ帰ってからも、また台湾に行こうじゃないか、などとたぴたび話が出たくらいであった。

 しかし台湾でも、いつも景気がいいわけではない。組合で行ったのはみなだめで、協会で行かなければ決してうまく行かぬ不思議な地区だった。台湾の巡業では、私はもう一度エライ目に会っている。同じことを繰り返すのは知恵のない話しかもしないが、二度目の苦労ばなしもぜひ書きのがせぬ気持が強い。いずれ稿を改めて読んでいただこう。

庄之助との珍談

 さんざん苦労して立ちもどった大阪の暮らしは相変わらずだった。仲間の連中も、みな私と同様、似たような者ばかりである。
「オー、太郎さん、もう用も片づいた。ボヤボヤしていたって始まらねえ、行こうぜ」

 こういう行司の林之助は、いつの日もバカに元気がいい。
「えらいハナ息だが、行こうたってなんだって、おれは百もねえんだ。こっちは元気がねえよ」
「くよくよするな。とはいっても、おれも実は何もないんだ。何か工夫はないか?」
「よしッ、おれに任せろ。お前、その帯出しな」

林之助の帯を出させ、私はたった一枚の袷を持って出て、金に換えようという算段である。 下関かららょっと離れた、宮市とかいう小さな町で相撲をすることになって、私ら二人先発で行ったのだ。行司林之助というのは、後には押しも押されもせぬ技量・識見兼ねそなえた立行司、二十二代木村庄之助さんの若かりしころの名である。

この人はさすが立行司となるだけあって、若い時からなかなか肚のすわったしっかり者で、どこか常人とは変わっていた。
 相撲の上がりで、むろん帯も袷も請け出すつもりだったが、興業の成績は至って香ばしくない。仲茶屋の権利を二円で売ったのだが、結局のところ帯も袷も出せやしない。

相撲は次の興行地鹿児島へ行くことになったが、宿賃もろくろく払えない始末である。しょうがない。向こうへ行ったらすぐ金を送るからといって、ゴマかして出かけてしまおうと相談したが、どういうわけか林之助がカタになって、そこに残っていようというので、私一人、組合といっしょに鹿児島へ出かけてしまった。
 これは、それから三、四か月も過ぎた後のことだが、私たちはその鹿児島から琉球、台湾と興行して歩いたけれども、林之助に金を送るなんということもできない−−いや、できないんじゃない。送れば送れないこともなかったろうが、われわれ仲間のクセでそれをしなかった。

林之助は帯を請け出し、借金を払わねば私たちの所へは来られない。私たちもいっこうに林之助の姿が見えないので気にかけてはいたものの、例のズボラな量見から、後は何とかして、大阪へ帰ったのだろうぐらいに思っていた。私たちはエライ苦労して琉球、台湾を打ち上げて、命からがら大阪へ帰って来たのが翌年(大正三年)正月も半ば過ぎ、ところがいっこうに、林之助の消息がわからない。まだ帰ってもいないのだ。

 すると数日経ってひょっこり、どこからかやっこさんが帰って来た。
「おお、林之助か、どうしたい」
「うん、どうしたもこうしたもないよ。金は来ないし、帯はないし、質に入れる物はナンにもないし……」
「それでどうして生きていたんだい?」
「なァに、しょうがないから宿屋に居候をしていたよ」

ずいぶんのん気な話で、夏から秋も過ぎ、冬まで宿屋に居候していたんだそうである。
「だけどね、あの宿屋は親切でねえ、正月もちゃんと雑煮まで食わしてくれたよ……」

 いかに時世が違っていたとはいえ、それまで平気で置いて、お正月のお祝いまでしてくれる宿屋も宿屋だが、これをまた図々しく、居候していた林之助のシンゾウも大したもので、今にして思えば、正に後年の立行司たる資格を十分持っていたものだろう。

褌がなくて興行ができぬ

 話は前にもどって、その林之助と別れた私は、急いで鹿児島に直行してみると、親方の竹繩さんという人が先に待っていた。鹿児島のいも焼酎を、いい気持でチビリチビリやっている。

七月ごろの夏の初めだが、南国の空はもう真夏を思わせるような陽ざしで、キラキラ照りつけている。暑いには暑いが、カラリときれいに晴れた南国の夏は誠に快い。その暑さに、強い焼酎をあおるのがまた格別の暑さしのぎというわけらしい。
「親方、景気はどうですかい?」
「景気か、景気は上々だ。幸い天気も上々だ。あしたさっそく太鼓を回してもらおうじゃねえか」

「それァよかった。さっそく触れましょう」
 夜が明けてみると、相変らず上々の天気だ。さっそく、お宮で触れ太鼓を、九時から十時まで賑やかにやった。相撲取りも全部そろって、おひるを過ぎたら始めることになっていた。ところがである。相撲取りもいるし、太鼓も打って舞台も役者も全部そろったのだが、肝腎カナメの褌がないという始末だ。いくら裸の商売だって、褌がなくちゃ相撲はとれやしない。衣裳がなくちゃ芝居はできない……。

 というのは、褌から何からはいっている荷物が、荷為替で来ているのだけれども、金を持って行かなければ、この荷物を受け取ることができないという騒ぎなのだ。その金が、十時になっても十二時になってもできない。

親方も焼酎でいい気持になってばかりもいられず、さんざん苦労したが、とうとう褌のはいっている荷物を取ることができなくて、触れ太鼓はしたものの、その日は休んでしまった。翌日になった。きょうは何とかできるというので、また太鼓を打った。今か今かと待っていたが、これまたその日も金ができずしまいで、どうにも動きがとれないで休んでしまった。

 すると、何とかいう土地のバクチうちが、
「こんなに毎日天気もいいのに、太鼓ばかりでいっこう相撲をとろうともしないのはどうしたんだ?」
「いや、何とも相すまないが、実は荷為替の金ができないんで褌がはいっている荷物が受け取れないんで体んだようなわけなんで……」
「そんなことじゃしょうがない。それじゃ何とかしてやろう」

というので、この大将が三百両こしらえてくれて、三日目にやっと蓋を開けることができた。 しかし二日も休んで、三日目だなんということになったら、これは、もう絶対に客は来ない。

相撲取りの方もそうなると稽古もしないし、相撲とる気にもならない。さんざんな大失敗、ほうほうの態で逃げるように次の興行地、奄美大島へ船で行ってしまった。幸い船も大した故障もなく大島に上陸して、名瀬で二日間の相撲をした。ここは小さな町だけれども、まアまアというところで大したこともなく、すぐにその足で琉球に渡ったのである。

琉球で家がつぶれた話

 奄美大島から琉球への航路は、よく台風の進路とか聞かされているので、船には相当苦しむのではないかと心配されたが、時期もよかったためか、至って静かな航海であった。空は雲一つなく澄み渡っているし、那覇の湾内にはいっても、海の色は、内地の港で見るような青さとはまるで連う。

波は荒いが、実に深々とした、底の知れないような紺青の美しさである。こんな美しい海は、めったに見たことがない。
 那覇港に上陸してみると、家々の屋根は低く、ひさしがたれ下がっているように見え、石垣で囲まれていて、ちょっと日本の街という感じがしない。

鹿児島ではいかにも南国らしい明るさを思わせたが、ここはもう熱帯の港だという感じだ。いつも台風に襲われるし、風が強いので、屋根を低く造ってあるのだそうだ。しかも、この低い家並みの軒々に、日の丸が夏の暑い陽ざしに美しくハタめいている。

 というのは、私らはあまり世の中の動きに注意を向けないほうだが、この日は大正三年の青島陥落の当日だったのだ。その広くはないが、砂地でわりにきれいな道路を、ハダシの子供たちなどが、バンザイバンザイとたいへんな騒ぎだった。活動写真で見る、どこか南洋の島国あたりの風景そのままだ。

 われわれの一行が泊った宿も屋根は低いが、ともかく二階家だった。下でチャンコをやって、飯がすめば 二階に上がってハダカでパクチが始まる。中には焼酎とは違って、味の強い泡盛でいい気持になっている連中もいる。私も例の仲間にと思って二階に上がると、関取が二、三人敷居の所で何やらいいながら立ち上がった。と、途端にミシミシッという音がして、ドーッと二階が落っこちてしまった。

何しろ三十貫前後の力士どもが七、八人も上がったんだから堪らない、一ぺんに二階が崩れ落ちたので、たちまちたいへんな騒ぎになった。しかし、まア幸いなことに大した怪我人もなく、無事に納まったが、これが町中に知れて一時はどえらい騒動だった。

 そういったこともあり、内地からお相撲さんが来たというので、相撲は非常な盛況だった。沖繩県人というのはもちろん日本人ではあるが、言葉なんかも琉球人同志が琉球語でしゃべっているのは、われわれにはチンプンカンプンだ。しかし、われわれと話をする時には、ちゃんといわゆる標準語の東京の言葉をつかう。新聞も、ちゃんと日本語の新聞だから、相当に宣伝もきいたものと見えて、十里も山奥からわざわざ相撲見物に那覇まで出て来るというわけで、毎日毎日相当の大入りが続いた。

 熱帯地だから暑さはこたえる。しかし、スコールというのか、ときどき雨がざーッと来るから生き返ったような快い気持だ。最初五日間の予定が、日延べで一週間になり、更に日延べで結局十三日間も興業したが、これが全部満員なのだから大した景気だった。組合はホクホクで鹿児島借金も返したし、相撲取りも実入りが十分にあるし、女にはもてるし、酒は内地の酒は、まずくて飲めないが、

本場の泡盛というバカにうまいのがあるのでまるで天国、みんなは大喜びだ。
 が、どうせわれわれの稼業だ、ウマい話が、そうたくさんに転がっていようはずはない。また大変な難行苦業が始まるのである。
 というのは関取衆、みな琉球でいい気もちになってしまって、竹繩親方がすぐ大阪へ帰ろうといい出しても、誰一人としてそれに賛成するものがない。台湾へ行きさえすれば、この沖繩以上もっともっと景気がよかろうという目算を立ててしまって、一同もうテコでも動こうとしないのだ。

 そこでまた私が先乗りになり、苦しい航海だったうえに、この時の台湾巡業はまるで失敗の連続で、私はとうとう大阪の女からカネを送ってもらって、命からがら大阪へ帰り着いた始末。だから当分のあいだ、人が台湾というとたちまち身ウチが総毛立つ思いに襲われたものである。

ベースボールマガジン社
呼出し太郎一代記、ページ162〜179、第六部、憂さつらさ、後編
挿絵、伊藤豊一画

七、再出発、前編へ行く

ウィンドウを閉じる