呼出し太郎一代記、15

前原太郎

八、太郎芸談、前編

呼出しの修業苦

 先々代の木村庄之助さんは、前にもちょっと記したように、非常に運がよかった。東西合併の前に、すでに脱走して出羽ノ海さん(先々代)の所にはいった。
もちろん御本人の努力もあろうし、腕前もさることながら、時めく出羽ノ海さんに引き立てられて、とんとん拍子に最高の地位にのし上がった。
今はNHKの裏土俵解説をやっている。

 髯の伊之助さんも、ほとんど私と同じくらいに協会にはいったので、私も行司になればよかったと、今でもときどきそんなことを考えさせられることもあるが、当時は呼出しの方に知った人があったために、早まってとんだ人生修業をしてしまって、はなはだ残念に思っている。

 先代の玉之助さんも大阪では持ちつ持たれつで長い間のつき合いだったが、この人なかなかの利口者、よくできた人で、どんなことを頼まれたって、頼まれたら決していやといったことがない。

また正直(先代庄之助)さんもたしかな人、なんでもよくできるから、副立行司でこの玉之助さんと一日交代でやっていたが、正直さんは庄之助になり、玉之助とともに定年退職した。
 思えは、ずいぶん長い呼出し生活である。呼出しなんといったら世間からは、義理も人情も知らないような、まるで人間の端くれぐらいにしか思われていないかもしれないが、
私自身は、われわれほどお互いを助け合い、お互いを励まし合っているものは、世間にもそうたくさんはいまいと信じている。なるほど私らは学もない、金もない。このごろは労働組合とか何とかいって、いろいろむずかしいこともあるようだが、私らはそんな七面倒くさいものはなくても、おのずからお互いに結構うまくまとまっている。

 たとえば、順序からいえば私の下に働いていた呼出し卯之助だ。これはいわばわれわれ呼出し仲間きっての長老で、出羽ノ海という大部屋に所属しているから位置もしっかりしている。実に五十年にも近い呼出し暮らしのうち栃木山(先代春日野)大錦(物故)常ノ花(先代出羽ノ海埋事長)武蔵山、安芸ノ海(藤鳥)千代の山と、六人もの横綱に仕えた長い経歴の持ち主だ。

 そういう功労者だけれども、だんだん年をとり、あまりシャンシャン立ち働くこともできなくなったのち、長いあいだ病床にあることまるまる六年半に及んでいたが、これに薬を与え、病いを養わせ、家族に食を提供しているのはほかでもないわれわれである。

私どもの組合は毎月二、三万円の給料を払っている。若い者五人に払う給料と、卯之助に払うものがほとんど同額くらいのものである。これは、お互いの約束みたいになっちゃっているのだから、知らない人は聞いてびっくりするだろう。この卯之助も三十四年に亡くなった。

 しかし、考えて見ると卯之助だって、長いこと相当の苦しい修業をして、長い間お互いの渡世を持ちこたえて来たものだ。今更病気で動けなくなったといって、われわれには不人情な仕うちは死んでもできぬ。あっちこっちへ頭をさげて、助けを求めるのは癪だから、そこでわれわれの組合がヤリクリ算段して、こういう相互扶助の手を打っているまでである。

私なんかも御存知のように、実に乱暴至極な暮らしを続けてきたのだけれども、根がのん気な性分に生まれついたお蔭か、七十七にもなってまだ幸いに病気なんかしたことがない。

 考えてみると、われわれの渡世ぐらいおよそ世の中に、奇態なものはめったにないだろう。今は大学出のサラリーマン諸氏も、昔ほどは羽振りもよろしくないようだが、たとえ学校は出なくっても人間、二十年三十年おんなじ職業に喰いついておれば何かとなる。

運のいい連中は事業仕事かなんかでヒト山あてて、自家用車でブーブー待合や料理屋へ乗りつけることもできるだろう。ところがわれわれの商売たるや、人様にはマトモに話しもできないほど苦労が要るくせに、あげくのはてが御覧のとおりの始未である。

われながら奇態な商売

 だけれども日本には、人間がウジャウジャたくさんいる。どうも、領土の割合には人間の数が多すぎるようだ。お蔭さまで相撲社会の景気は、大体のところ悪くない。だから、多すぎる人間の中にはタマにはわれわれみたいな変わり者がいて、好きこのんで呼出し渡世を志願するやつが現われまいものでもない。

実に私たちも、そういう変わり者の出現を大いに心待ちにしているのである。近頃はラジオも大流行、テレビもだんだん盛んになって、私たち呼出しの存在もだいぶ派手になってきた。

 古い時代の来歴を聞いてみると、呼出しはもと「前行司」ともいい、また「奏名」ともいって、相撲の前に土俵にのぽる力士たちの名前や位置や生国などを、いちいち紹介する役目をもっていたらしい。後にはただ「名乗りあげ」とよばれたこともある。ラジオなどではまずチョンチョンと拍子木を打ち、精いっばいの美声で「東い、大−鵬オー」などと甚だ調子もよろしいが、

奇態なことに相撲の番付をみても、相撲年寄はむろんのこと、行司にも、木村庄之助、式守伊之助とチャンと苗字が出ているが、この呼出しばかりは一番古い番付といわれる明和時代いらい「名乗りあげ団蔵」としか書いていない。

 一時は呼出しも小さい字で番付のケツの方に私・太郎を筆頭に卯之助、栄次郎、源司、安次郎、栄吉、福一郎、小鉄、茂太郎、粂吉、松之助、寅五郎、多賀之亟、伊勢徳、寛吉などの名がでたが、いずれも大臣や博士先生のようなイカつい名前ではなく、汚職とやらで小管の別荘?へ行けるような堂々たる名前は並んでいない。

人しれず、相撲の社会に何かの縁故があって、自分でその気になるか人にすすめられるかして、この奇妙な商売に足をふみいれた連中ばかりだ。

 相撲史はじまって以来といわれた呼出しの番付登場も、十年ちょっとで姿を消したが、いちじは五十名近くいて、心強い限りだったが、いまは半分だ。実をいえばこの呼出しの仕事は、なかなかナマやさしい渡世ではない。土俵で美声をはりあげるのはホンの表芸で、まことに忙しい商売だ。

相撲場内外一切の雑務担当者である。たとえば触れ太鼓、櫓太鼓、幟りの用意、幣白を立て
る仕事、土俵の掃き浄め、力水の差し添え役、時間の告げ役、そのほかに場所中はそれぞれ取締り室、役員室、桟敷部長、木戸部長、協会事務所などに配属されてすべての雑用を足す。

 それがもし地方巡業となるといよいよ大変、すでに何べんも書いてきたように、まず力士組合の先乗りから、小屋づくり、土俵構築、太鼓の町回り、ワリ(取組)のビラ書きなど、力士たちの旅館の手配、おびただしい荷物の宰領等、なにからなにまでコマメに立ち働かねばならぬ。

そのうえ、協会からのお手当(給金)は至ってわずかなものだから、番付や本や雑誌やいろいろな物を売った純益、それを組合がめいめいに配当する仕くみ……。これも今はだめになった。

 これだから、よっぽど変わり者でもなくては呼出しは辛抱ができにくい。ことに戦後のアプレ的若い衆は、その内容をきいただけでたちまち尻ごみをしてしまう。当の私たち自身でさえ、自分の可愛いい子供らに、無理に呼出しを修業させようというような勇気はない。が、みんながみんなそんなあんばいでは、相撲になくてはならぬこの呼出しそのものが滅んでしまう。

御方便なものでパカパカしい商売でもなんでも、この稼業の道の好きな者ばかりが協会にいて、別に不平も苦情もいわず渡世大事とこの仕事を続けている。私などが現在、とくにその前途を心配しているのが、呼出しの大切な仕事の一つ、太鼓の修業者が至って少ないということだ。

太鼓のむずかしさ!

 前にもちょっと触れたことがあったと思うが、この太鼓の修業などということは、いよいよもって容易なものではない。自慢するのはイヤだけれども、今のところ私ほど太鼓で長い苦労をしたもの、また相当うまく太鼓の打てる呼出しなどは、まずいないといっていいくらいだろう。

初めは寝ていても枕を相手にトン・トコトン・トンと三拍子をやるのだが、いざ本物の太鼓の前に出ると、これが絶対にうまくいかない。誰でも最初は一生懸命にやるものだが、そのうちに年頃になれば遊びもする、色気も出て来るで、いい加減なものになってしまう。何事でもそういうものだろうが、太鼓の修業なども、月並の言葉だけれども、何処までも努力、ただ精進ということに帰着する。

 私だって今日まで、御存知のようにずいぶんチャランポランの生活はして来たが、一方決して、このみちの修業を怠ったことは寸時もない。私が太鼓を教わったのは、大原金次郎という七十ぐらいの名人であった。もうシワくちゃの爺さんだったが、太鼓の前へ行くとシャンとして、実に見事に太鼓を打った。

この名人に、最初の手ほどきをしてもらったのが、私にはまことにしあわせであった。ずーと前、私がまだ大阪におった時である。そこへ泥棒の幸一という、これまた太鼓をたたかしたら天下一品というやつがやって来た。

 呼出し幸一については、前章大連での任侠伝で、読者もすでにおなじみのはずである。こいつは、酒を飲ましたらどうにもならない代物で、飲みさえしなければまことにおとなしい好人物だった。太鼓ときたら実に立派であった。けれども、好きな一杯をやると、とたんにどうもイケなくなる。そこの家にある箪笥から、何かを待って行かないと、テコでも承知しないという、まことに変わった酒くせのある男、こいつがたまたま、大阪の親分のところへ流れて来たので、私が親分に頼んで置いてやることにした。

 なぜそんな手癖のよくないやつを置いたかというと、いかにもこいつ太鼓がうまいので、これを相手にして、みっちり太鼓を修業しようという、私の肚だった。そのほか、そこには喧嘩の理平、金庫破りの由なんという、とんでもないツワ者どもが同居したものだから、近所からたびたび文句が出て困ったが、私は太鼓をうんと覚えようという一心から、泥棒の幸一と知りつつ、しばらく助けてやって修業をした。

 しかしこの男、どうしても一杯飲むと泥棒のクセが治らない。とうとうここも出されてしまった。私が東京に来たころ、乞食になっていた幸一を見たことがあって、その時いくらかやったことを憶えている。が、この幸一のように、いくら太鼓をたたく技術は巧みでも、飲めば必ず他人様のモノを失敬したくなるという大変な持病があったのではしょうがない。

彼はとうとう乞食にまでテンラクした。私は自分が上手になりたいばっかりに、その病気をガマンしてまでも幸一について太鼓を修業した。
 太鼓はたたけば音がする。一通りの打ち方を覚えるのに苦労はいらない。町や村にお祭りでもあれば、子供らが結構ひと通りは太鼓を打つ。太鼓は音が出るようにできている。むずかしいのは本当の冴えた音を出すというワザだ。これはとうてい五年や十年の修業では、本当の音が出せやしない。

熱心が要る、ただ天才的な素質をもって生まれた者の違いは、他人が二十年かかるところを半分の十年、いや、七年か八年の苦労で名人・上手の域に達するという点にある。

名人上手の心境

 泥棒の幸一などはそういう点、近来マレにみる天才であった。酒を喰らって、酔っぱらって人のモノを盗んで暮らしながら、いつの間にかあのような名手になっていた。私なんかときたら天才ではない。そして酒は好きだけれども、泥棒をやりたいという量見もおこらない。
ただ生まれつき、他人様に負けるのがキライであったのと、音を一つ聞いただけでこいつは上手だ、こりゃだめだというケジメがわかるだけの耳をもっていた。最初の師匠大原金次郎爺さんの音の冴えが、そもそものたたき始めから私の耳にチャンと残っている。誰の太鼓をきいても師匠ほど、いい音を出せるものに出会ったことがない。

 同じ太鼓を同じパチでたたいて、それで比べ物にならぬほど違う音が出せるというところに、修業の神秘といったようなものがある。これは筆やクチでは説明ができやしない。徴妙な境地である。いくら無茶苦茶に力を入れてたたいても、修業がナマクラではいい音が出ない。碁だって将棋だって、剣術だって相撲だって、修業が万事を決する筋みちに変わりはないだいう。

剣術はちょっと物騒だ。宮本武蔵なんていう人は、ヒトを幾人も斬って古今の名人となったのだろう。斬りそこなえば、コッチがやられてしまって、それで一巻の終わりなのだから、ああいう大将の修業精神は大したモノだったに違いない。

 ある時、今井慶松さんという亡くなったお琴の名人の話をラジオできいて、私などもなるほどナと感心した。あの人はメクラである。
琴を修業しようと思って横浜の生家を去り、東京の山下というこれも名人のうちに弟子入りをするとき、一通りの修業が実を結ぶまではフタ親にも会うまいと決心した。そして、十七の時から二十二まで、盆と暮には必ず両親が師匠のお宅へ挨拶に来ても、二階でなつかしい親たちの声だけはききながら、断じて会おうともせず、ヒタすらにお琴の修業をつづけていったそうである。

 両親に会ったところでかくべつ修業の害にはならんだろう、と、そう考えるのが素人根性の浅墓さなのだ。そのくらいの決心と奮発が底に淀んでいなくては、とても名人上手にはなれやしない。
ところが私ときては、幸か不幸かメクラじゃなかった。長い放浪中も、ベつだん両親に会いたくてタマらぬという考えも浮かばなかった。しかも御存知のような道楽者、とうてい今井先生とやらの足元にもよりつけはしないけれども、ざっとこの商売にはいって六十五、六年、もっと上手に太鼓を打ちたいという念願だけは、一日といえども脳中をぬけ出したタメシがない。

そういうわけだから、一通り琴がひけるまではフタ親にも会おうとはしなかった人の話が、身につまされて肚にグーッと来るのだろう。
 厄介な話だが、この太鼓というやつ、どうも、年効や場かずだけではダメのようである。名前はあずかるが、私どもの仲間のうちでも、二十年、三十年太鼓を打っていて、いっこうに音の冴えないやつがいる。音がいいかわるいか、すぐコッチの耳に来るのだから弱る。そういう私だって、まだまだ自分の腕前に満足しちゃいない。

もう二十年、八十五、六にもなったらちっとはマシな音が出せようかとも思っている。が、世間はオンチばかりじゃない。いつかの読売古式相撲で、獅子文六さんが私の太鼓をきいて下すって、これだけは大したモンだ大分前に書いてくれた時には、私も実にうれしかった。
 さて、話がだいぶ横道にそれたようだが、そういうふうに真剣に、死んだ気になってやらなければ、太鼓だってとうていうまくなるものでない。こんにち私も、すでに相当の年輩になった。

私の太鼓の跡を継ぐ者といったら、さもずめ呼出し正之なんかはうまいほうだけれども、そのほかには、これぞといって上手になりそうな若い者がいない。これから先どういうことになるであろうか、時代はすっかり変わってしまったし、相撲の伝統とともに、何とか太鼓の伝統も残したいものと目下しきりに悩んでいる。

戦争はイヤである

ペンにもクチにも、説明のしにくい太鼓芸談は、とかく自慢や自己弁護になってテレくさいから、このへんでその後の相撲のうごき、われわれ呼出し渡世の四方山ばなしの方に転換して先を急ぐことにしよう。なにしろ国技館が建って、雨が降ろうが槍が降ろうが、入れかけなしで相撲ができる。

梅ケ谷、常陸山に次いで太刀山、駒ケ嶽、西ノ海(二代目)、鳳、伊勢ノ浜、大綿という大力士がどんどん出る。
 東西合併の大日本相撲協会ができてからは、相撲はいよいよ盛んになって行く気運に向かい、横綱にも西ノ海(三代目)や栃木山、常ノ花を初め、のちに横綱となった男女ノ川、武蔵山、玉錦などという強い相撲取りも出て来て、相撲界もたいへんな好景気が相当の期間続いた。
ところが、たまたま例の天竜事件(春秋園事件)が勃発、これは昭和七年、世の中はその前年に溝洲事変などが起こって、何となく不気味なざわめきのあった時だ。

 前記のように、後年横綱になった武蔵山とか男女ノ川とかいう有望力士や、小兵で相撲の神様などと呼ばれた名大関の大ノ里を初め、大半の力士がここでゴッソリと協会脱退という大旋風。そこで協会には玉錦、清水川以下残った力士はわずかで、番付編成もできないという。
さしも天下泰平を謳われた両国国技館の大相撲も、一挙に寥々たる国技館になってしまった。 この事件で、それまで協会を牛耳っていた先々代の出羽ノ海親方を初め三人の取締りが責任を負って辞職したので、藤島さん(先代の出羽ノ海)、春日野さん、立浪さん、錦島さんが、協会の跡を引き受けることになったのだが、この親方たちのそれ以来の苦労というものは、実になみ
たいていのものではなかったと思う。

 やがて一旦脱退した武蔵山、男女ノ川、その他の強い力士たちが帰っては来たが、一度崩れかかった協会の建て直しは容易なものではなかった。だが、しかしこれら親方たちの苦労もだんだんに実を結んで、おいおいとその勢いを盛り返し、それから六、七年後の協会は、双葉山関という大横綱の出現で、あの相撲界空前の黄金時代が訪ずれた。

 昭和十二、三年ころを絶頂に、相撲の黄金時代はしばらく続いて、私らもおかけでかなりの恩恵を蒙ったわけだが、やがてこの泰平の夢は戦争によって徴塵に壊れてしまった。戦争がだんだんに厳しくなるにつれて力士の応召者も相次ぎ、残ったものも深刻化してくる食糧難にあえがねばならなくなった。

 もはや相撲どころではない。藤島さんが総指揮官、春日野さんが先頭に立って力士たちを指揮しながら、毎日あっちの工場、こっちの軍用工事と、力仕事の勤労奉仕が続いた。私らは、そういう仕事は相撲取りといっしょにはとてもできないので、飯を焚いたり、茶碗を洗ったりの留守番だ。留守番のほうは武蔵川さん(現出羽ノ海)が大将だった。

 相撲取りのほうは、勤労奉仕に行けば飯を食わしてもらった上に幾らかくれる。ことに軍部に行った時などは、お菓子とサイダーなどをもらって来る。力士連中はこれをたいせつに持って帰ったものである。

牛前中は勤労奉仕、午後は軍隊や工場などなどの慰問の興行で、東京市内はもちろんのこと全国各地を回ったものだが、最後に北海道に出ノ海部屋だけ慰問興行に行くことになった。

焼野原の国技館

 さて、もうその頃になると、戦争はいよいよ激しくなって、いろいろのデマが飛ぶ。力士たちもどしどし応召する。空襲は次から次と毎日のようにあるし、食糧はせいぜい芋や豆飯なんという有様だったから、協会の親方連中を初め力士も行司も、呼出しも、みんなどこかへ逃げてしまって、最後まで残ったのが春日野さん、安芸ノ海さんほか、わずかの相撲取りと行司、それに私だけだった。

 総勢といってもまことにわずかなもの、しかし北海道へ行くとなれば、ことによると半分は帰れないかもしれないが、ともかく、最後までガン張ろうじゃないかという覚悟で、春日野さん引率の下に出かけて行った。

呼出しは私一人だけで、これではどうにもしょうがない。で、双葉山さんが九州に道場を開いていたので、そこから五郎を借りて来、松吉と大次郎と三人を連れて出かけた。 そして、青森まではどうやら行けたのだが、青森で船を待つ間に空襲を食ってしまっ
た。でも幸いに怪我人もなく、みんなほうほうの体で逃げ回ったが、そのうち船は沈められる、

とても青函連絡などは保証できないというので、どうしても北海道へは渡れない。春日野さんもこれではしょうがない、諦めようと、青森から引っ返す途中、辛うじて仙台、その他で慰問の相撲をやり、命からがらやっと東京へ帰って来た。

 終戦間近くなってくると、いよいよ東京の空襲は激しさを加えてくる。どこそこに爆弾が落ちたとか、焼夷弾が落ちたとかで大騒ぎになってしまった。私はこれじゃとてもいけないと思ったから、家内と子供を小田原に疎開させ、自分一人両国にガン張ったが、ここもどうにもいられなくなって、小田原から定期で毎日協会に通っていた。

協会に来たって何の用事があるわけじゃないが、何とかして人間はメシを食わなくちゃならない。
 協会だって、みんな大した用事があるわけじゃないが、藤島さん初め春日野さん、その他二、三の親方衆とわずかの相撲取りは、ともかく従前通り勤労奉仕をやっているのだから、私らにしろ知らん顔しているわけにはいかぬ。用事がないといっても、雑用ならばいくらもある。
で、ともかく毎日来てガン張った。横浜の空襲の時などは、実にひどかった。途中汽車も通じなくなってしまった。私は幸い慰問に行くので、軍属のマークをつけていたから、警戒線なども自由に道れたし、軍のトラックなどを利用することもできたので、空襲で悲鳴を挙げている子供連れの婆さんなどを助けながら、小田原へ逃げ帰ったこともある。

 こうして日本は敗れた。 日本はついに手を挙げてしまったのだ。敗戦目本の姿はみじめだった。空襲に明け暮れしたさしもの大東京は、大きなビルディングも小さな商家も、焼けただれた哀れな骨ばかりの残骸を曝しているだけだった。道行く人々のうつろな眼は、とうてい日本人の姿とは思えやしない。何もかもなくなってしまったのだ。

 だがしかし、私も同じうつろな眼で、両国橋畔の焼野原に立ち、はっと気がついて見上げた時、思わずわれに返って勇気を奪い起こさせてくれたのは、あのなつかしいまんまるい国技館の逞ましい姿だった。幾度かの爆撃にも崩れ落ちることなく、その偉容はびくともしなかった国技館は、荒涼たる焼野原に、依然としてデンと大きくすわっていたのである。

ベースボールマガジン社
呼出し太郎一代記、ページ206〜221、第八部、太郎芸談、前編
挿絵、伊藤豊一画

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