呼出し太郎一代記、17

前原太郎

八、太郎芸談、後編

定年制に生き残る

 呼出しの名が番付から消えた三十五年に、協会の定年制というのができて、私らもお仲間入り
ということになった。これは年寄の親方をはじめ、若者頭、世話人、床山、協会事務員までふく
まれている。
私はそのとき七十二歳だから、呼出し定年の五十五歳を十二支でいう一回りもオーパーしているわけだ。定年制なんて、妙チキリンなものができたときは、学のない私なんぞ、正直にいって何んのことやら見当がつかなかった。

 相撲社会は大むかしから、廃業した力士は別だが、ここで生活したものは、死ぬまでくっつい
ていてはなれないものときまっていた。

年寄だって、行司だって、呼出しだって、ヨイヨイになってもおいてくれたもんだ。「ここはよその社会のように薄情じやァないんだ。死ぬまで面倒みてくれるんだ」と、人にも語り、自分もそう思いこんでいた。定年制度なんてえものは、会社づとめの月給取りがやるんだときめていたが、この世界も世間並になったもんだ。

 そして、翌三十六年一月から、チョンと首を切られることにきまってしまっていた。その年(三十五年)の私のさいごの場所になる九州福岡へいっていると、先代出羽ノ海親方から「ちょっと来い」と使いが来た。私は忙しかったんでいかなかったら、三べんも呼びに来た。
そこでとんで行ったら、親方が、
「太郎、なにをしているんだ。心配していたんだぞ」とおっしやる。
「じつは太郎、来年定年になる件についてだが、福岡へ来る前に武蔵川(現出羽ノ海)と春日野(栃錦)と相談してきたんだ」
「ヘえ、なんのことで…」
「おれは、いまは相談役で、現在のところ、あんまりものをいうのはいやなんだが、太郎を出羽ノ海部屋から出すわけにいかない、そんなことをしたら、世間のもの笑いになるから、なんとかしようということになった」

「ヘえ」
「そこで、現在の月給は今後出羽ノ海部屋で出すから、太郎に一生部屋にいてもらおう。小遣いが足りなけりゃ、十二分にするから、という話しを東京できめてきたわけだ」

 まったくありがたい話しだ。
「おまえが、いろいろ苦労してくれたじぶんには、おれも理事長で、一応相撲協会の大黒柱だったが、あの騒動があって相談役になってから立場が違う。しかし、まだ無理をいえば自分のいうことは通るだろうが、そうはできない。だけどおまえのことは、東京で武蔵川が心配して、太郎にこういってやってくれといわれて別れて来たんだ」

「どうもご心配かけまして……」
「まア、そういうわけだから、若い者(呼出し)の面倒でもみて、太鼓を教えるとかなんとかして、うちの部屋におればいいじゃないか。これはもともと、協会の呼出しといったところで、みんな部屋についている者が協会の用事をやっているんだ。だから、出羽ノ海部屋の呼出しだといえば、文句をいう人もないわけだな」

 こんこんと、かんでふくめるようにやさしいことをいわれてみると、すっぱりやめる気でいた私も考えなおさなければならなくなって、親方たちの好意をうける気になった。腹の中じゃ(太郎のやつ、めしが食えないもんだから、お情けでまだやっている)なんて、いわれたらいやだから、このさい、きっぱり身を引くことにしたのだが…。

第一この年になっちゃ、体が思うようにならないし、いろいろ若い者の面倒をみるのも、つかれるからと思っていたんだが……。だがわたしらお相撲が好きでなった商売だし、五十年も六十年もやったんだから、そりゃ、人にはいえない愛着というものがあるね。

この場所後、長年世話になった先代出羽ノ海親方が千秋楽の翌日、福岡筑紫町の旅館で急に亡くなったときは、やたらに泣けてこらえようもなかった。せっかく部屋においてくれるといってくれたあとだけ、相当なショックだった。この御恩は部屋につく
すより方法がないと、御霊前に固く誓ったものだ。

 そんだ、こんだで、出羽ノ海部屋所属ということで、この相撲社会に残ることになり、相撲記者クラブを引続いてお世話することになったわけだ。
これはわたし一人の考えかもしれないが、宣伝というのは一番大事なものだもんな、いくら相撲が盛んになったって、新聞記者に相撲を書いてもらわなきゃあ、一般の人たちも興味がなくなってくる。−−別によく書いてもらおうということじゃないんだけれども、相撲が書かれなくなったらおしまいだ。

昔とちがって協会の方はえらくなっているけど、やっぱり宣伝は大事だ。だから記者先生たちも大事にしなきゃあいけない。いくら佐藤首相がえらいといったところで、あれが、新聞社がぜんぶ反対をして書いたら、おしまいだものね。

 何しろこの三十五年という年は、目が回るほど忙しかった。九州場所後に急逝した出羽ノ海親方は、お骨になって十二月一日に帰京し、二十日には、故出羽ノ海のあとを武蔵川親方が後継者に選ばれ、ついで二十四日には協会三十五周年式典、二十六日には故人の協会葬が蔵前国技館で盛大に執行された。死んだ親方に政府から勲三等瑞宝章が贈られたことも、さんざん世話になっていた親方だけに、悲しい中にも、うれし涙が出てしかたがなかった。

霊験あらたかな観音像

 定年で今年限りやめるときまった十二月、財団法人設立三十五周年記念式典があったとき、協会から表彰状というものをもらった。若いときからさんざん、すき候の勝手なことばかり道楽三味してきた私にとって、照れくさいやらはずかしいやらで、これで家内にも子供にも「仕事だけは、ちゃんとやってきたんだ」
と、タンカをきることができるという証拠みたいなもんだ。きまりはわるいが、記念だから、ちょっと書いておいてもらおう。
            表  彰  状

                              呼出太郎 事
                              戸口貞次郎殿

貴殿は呼出しとして、その任務を全うし、多年勤続されたので財団法人三十五周年記念式
典にあたり、記念品を贈り、之を表彰す
         昭和三十五年十二月二十四日
                      財団法人日本相撲協会

 記念品というのは、金の延板に宇を刻んである小さな記念牌みたいなものだった。

 金の延板といえば、私はこれと同じようなものに、観音様の御姿を彫ってもらって、大鼓の胴にはって信仰している。私のような道楽もんが、信仰だなんていうと、笑う人もいるかもしれないが、これには、ちょいといきさつがある。

 私が十四歳くらいのハナたらし小僧のとき、浅草の観音様を拝んで願をかけたことがある。なんでかけたかというと、あのころ呼出しの兄弟子が、
「てめえの太鼓の打ち方はかいもくなってねえ、バチのにぎりかたがまちがっている」
 朝から晩まで、ガミガミどなり通しだ。いま考えてみると、自分たちの用事を、私にさせるために、それ以外のことをやっているといじめる。それで兄弟子の得心のいく用事をしてやると、

「おまえ、ちかごろ太鼓がうまくなったな」とほめてくれる。昔はいまとちがって、呼出し仲間でも競争心があってなかなか激しかった。そこで、観音様ヘ「太鼓が上手になりますよう」って願をかけた。私はお茶を断って願をかけた。
そのころはおかしなもんで、願をかけると、何か断物をして神様や仏様にお願いする。私は茶を断っていたので、巡業へ出ても気をつけて飲まないように気をくばっているが、旅へいって夜も寝ずに働き、「ほら太鼓だ、土俵だ、木戸口だ」と追い使われて、へとへとになって旅館に帰る。

女中さんはもうとっくに寝ているのに、水をくれ、湯をくれなんてぜいたくなことはいえない。
宿の室には、お盆の上にぬるくなったお茶がおいてある。暑くて苦しいから、それをあわててガボっと一息で飲んじゃう。
「アッ、しまった」
と思うけど、もうあとの祭りだ。そんなことがあって東京へ帰り、さっそく観音様に行ってあやまった。

「観音様、お茶断ちの願がけしたのにすみません。夜寝ずに働いたりしたときは、そうなっちゃうんで、もう仕方のないことなんで、どうかかんべんして下さい。いつかあらためてお詫びいたしますから……」
 あやまって、それからはお茶を飲み出しちゃった。それから、六十年あいたち候ってことで、定年までさんざんやってきた。

 部屋から月給をいただいたって、それは一銭だって貯金しようとか、てめえで使っちゃおうって料簡じゃない。そのとき、パッと頭に浮かんだものがある。もういっぺん観音様にお願いしてみようと思ったのは、りっばな太鼓を新調して、これを観音様に納めて祈祷してもらおうということだった。

いろいろ手を回して、これ以上のはできないという金のかかった太鼓ができたので、胴に観音様のお姿を毛彫りした金の延板をはめこみ、浅草金竜寺の観音様へ持って行き、お堂の中で打っちゃあいけないというのを、むりに頼んでお坊さんに打ってもらった。ずうっと祈祷を頼んだ太鼓は、坊さんのお祈りがやっとすんで、出羽ノ海部屋へ持ってきたのが、三十六年十二月の大みそかの晩だった。寒いけいこ場に太鼓をすえて、わたしは三十分くらいすわってお祈りをした。

「どうか、観音様、出羽ノ海一門が盛大になりますように」
と頼んで、除夜の鐘が打ちはじめると同時に太鼓を打ちおさめようと、心づもりだった。
「おれの耳に、除夜の鐘が聞えないといけねえから、ボーンときたら教えてくれよ」
 そういっておいて、お祈りが終ると、太鼓を打ちはじめて、お終い太鼓のさいごのバチがおさめ終る間髪入れずに、除夜の鐘がボーンときた。うれしかったね。こりゃ観音様の御利益があるぞと、心の底で固くそう信じたね。

 そう信じていたらその年の三十七年のうちに、一門から、つづけて三人大関が出た。五月に佐田の山をはじめとして、七月には栃ノ海、栃光の二人がいっぺんに昇進した。
 長いこと世話になった部屋なんだから、わたしが死んだあとに、何か形身だけでも残していきたい。それには縁起ものの太鼓がいい、そう思って観音様に清めていただいたのをけいこ場に納めてもらったわけだ。そうしたら、たちまち大関が三人出ちまった。そりゃ、太鼓だって、拝み料だって、だいぶかかったが、部屋への長年のお礼だと思えば安いもんだ。

太鼓で祈る横綱誕生

 出羽ノ海部屋には、先代にもいまの親方にもずいぶん世話になったが、一門の先代春日野親方(栃木山)にも、いろいろとわがままをいったもんだ。あの人には、ひどく怒られたこともあったし、こちらも負けずに
「なにいってやんだい、はげ頭め」

と、いい返したこともある。いまの春日野親方(栃錦)にも世話になったり、世話したりで、そんなことで、春日野部屋へも、太鼓をもう一つ形身に納めなきゃァいけない。そう思って、三十八年に太鼓を新しくつくってから、
「親方、神様は何を信心していますか」と聞いた。

「浅草に日限地蔵ってお地蔵さんがあるね、家内のお母さんが信心しているので、私のところは、みんなこのお地蔵さんを信仰しているんだ…」という。このお地蔵さんには、お相撲さんとしては、親方が初めていったそうだ。
「じゃあ、そこへ行ってまたお願いして、太鼓に魂を入れてもらいます」

 こんどはお地蔵さんのお姿を借りてきて、彫り師の長吉のところへもっていって、金の延板に彫るように頼んだ。
「太郎さん、この前の観音さんを彫るときは苦労して、頭が痛くなって困ったよ」
「それじゃ、お地蔵さんへ行って、いっぺん太鼓を拝んでもらってから彫ったらどうだ」

 そこで、春日野部屋から太鼓といっしょに地蔵さんのところにいき、拝んでもらってからすっかり彫ってもらった、といういきさつがあって、大鼓を春日野さんのところへ納めてもらった。

 そうしたら、翌年の春(三十九年一月)、栃ノ海関が、横綱になった。前に出羽ノ海部屋へ納めたときは、大関が生まれるし、こんどこっちへ納めたら横綱だ。観音さんに物言いをつけるわけじゃないんだがちょいと片手落のような気になって、また出羽ノ海の方の太鼓を拝んでもらったら、佐田ノ山関が一年おくれの四十年初場所に文句なく横綱になっちゃった。だから、まったく縁起がいいわけだ。

 自分の口から、こんなことをいっちゃァおかしいが、よその人だったら、五十年六十年も部屋にいたら、餞別をいくらかもらおうということを考えるだろうが、私はそれが大きらいなんだ。

自分でこれだけのことをして置いとけば、私が死んだあとでも太郎の太鼓だということで、少しは話しの種にもなろうし、また神様や仏様なんか、そんなに悪いもんじゃない、信仰して悪いということもないんだから、こう思って清めに清めた縁起のよい太鼓を納めたわけだ。

無一文で部屋を新築

 春日野部屋と私の因縁は、ちょっとやそっとで語りつくせない話しもあるが、戦後の二十二年秋場所、といっても明治神宮外苑で十一月興行の初日だったが、両国の春日野部屋が、隣りの油屋の倉庫から出たもらい火で丸焼けになってしまったことがある。たしかこのときから東西制をやめて、系統別総当り制になったその上に、三賞制度ができた場所だった。栃錦関はまだ入幕し
て間もない若いころで、下の方だった。

 春日野親方(栃木山)は、焼け残りの焼けトタンで囲いをしたけいこ場を急造して、持出した畳を敷いた上に弟子たちを寝かしたが、自分は土俵をつとめるわけじゃないからといって、けいこ場の土間にテントを敷いて横になっている。

 これを見かねた部屋では古株の神東山(現岩友)が、私のところへ
「部屋を建てたいけれど、なんとかしてくれ」
と頼みに来た。こっちは、前にも述べたように、家をこさえたばがりで、借金もまだいくらか残つている。

「おれは、借金があって、そっちまでとても手が回んないから、かんべんしてくれ」
と断った。金があったって、資材はなく、手続きが面倒なころに、押しの一手でバタバタと自分の家を建てちまったので、きっと評判になっていたんだろう。わきからうちのかみさんが、

「だけどあんた、なんとかしてやりなさいよ、山田組へ行って話しだけでもしてみたら−−」
「じゃ、行ってみよう」ということになった。
 世話になって知っている山田組へいって、組長に、こういうわけで焼けちまった春日野部屋の建築をやってくれと話したところが、組長は
「ああ、元の栃木山という横綱だね、でもおれは、春日野さんの顔もろくに知らないが、いまは協会の取締をやってるんだね」
「へえ、そういうわけで、一つ頼んます」
「それで、お前さんのいうように建てると、やっばり何百万円はかかるが、金はあるのかね」
「いいえ、金は五厘一銭もねえので」
「じゃ、どうするんだ」

「どうするって、そのお金がないから、頭を下げてお願いに来たんで、お金があれば、初めっから、堂々と来て建ててくれっといいますよ」
「それじゃなにかい、金はないわ、ただで建ててくれってわけだな、あとはどうなるんだ」
「そこを親方、なんとか助けて下さい」

「じゃ、あとの引受人にだれがなるんだ」
「だれがなるったってあんた、私も金一銭もないし−−相撲協会へ行ったって、ゼニを一銭でも持っているやつは一人もいない。金がないのに引受人になるバカはありませんよ」
「じゃァ太郎、お前が引き受けるか」

「私が引き受けるといったって、借金ばかりだし、これから一生食わずに働いたって、そんな金は、できっこないんだから……」
「だけど太郎、男なんてえものは、金じゃないんだ、男と男の話しというのは、金じゃ買えないものがある。だから、お前が引き受けるというなら、話しに乗ろう」

「へえ」
「お前は、親方にお世話になっているんだろう。そりゃァ、向こうは取締だし、こっちは呼出し、あの人にはずいぶん世話になっているはずだ。でなかったら、こんな無茶な話しを持って来られるはずはない」
「ヘえ」

「じゃ、お前の恩返しのためにも、私が話しに乗ろう」
「ヘえ、金がなくてもいいんですか」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、お願いします」
 そのあくる日、山田組が来て焼跡の地面の図をとる。組長はすぐに千葉県の山の中まで用材やけいこ場の柱を買いにいく。バタバタとことが運んで春日野都屋の建物ができあがってしまった。
 そうしたことがきっかけで、組長と春日野さんがつき合うようになった。組長の山田さんは、腹の底のすかっとした人だし、親方は曲がったことの嫌いな人なので、すっかり意気投合した。

栃錦関の結婚秘話

 そのうちに栃錦関がどんどん強くなって、二十七年秋に優勝して、次の二十八年一月大関になって、部屋も関取が増えて盛大になってきた。そこで私は考えた。ほかの三役力士は、たいがいおかみさんをもって、家を建てて一家をかまえている。大関がてめえの家もなくて、お相撲に負けて帰って来て、部屋の二階で、ふとんをかぶってゴロ寝してたんじゃ、負け出したら気分を直
すこともできやしない。

まして、もう横綱の声がかかろうっていう、日の出の勢いの栃錦関だ。
これにはなにか、当人を朗らかにしてやらなきァいかん。朗らかにやっていくには、家でも女房でも持たすに限る。たとえ負けたって元気が出るというもんだ。とにかく家を先にこしらえちゃえと思った。

 人気の高い花形大関、栃錦関だって彼女の二人や三人はあるに違いない。だが彼女は彼女、女房は女房だ。お相撲さんなんて、家内持ったって、めかけを持ったって、相撲さえ勝って強ければ、世間はさわいでくれるんだ。ほかの社会の者とは違うんだ。私は私なりに考えた。

栃錦関の女房に押っつけるには、またとない候補者が、あたしの胸ん中にちゃんと用意してあったから、まず家を建てることにして、山田組の組長に頼みこんだ。栃関はもちろんなんにも知らない。組長はちょっと考えていたが、
「じゃ、栃錦関のために家を建ててやろう」
「一つやって下さいよ、春日野親方も喜ぶことでしょう」

 春日野部屋の脇に空地があった。
「親方、栃関のために家を建ててくれる人がいるんですが、ついてはいまなかなか地面がないから、親方一つこの空地をやってくれませんか」と、春日野親方に話した。
「いやだめだ。おれにだって老後のことがあるし、親類のこともあるから、いけないね」

「老後は老後、親類は親類。いま親方に一番縁の深い栃関は、あんたの息子同様じゃないですか。だからここへ建ててもらえば、〃栃錦〃ってえ、ここでどなれば聞えますよ。そうしてやって下さい」
「いや、そういうわけにいかない」

「地面くれなけりゃ、どっかへ家をこしらえますよ」
「勝手にしろ」
「それじゃ、親方、よそへ地面をさがして建てますからね」
「いいようにしろ」
 あたしはおもしろくないので、はいさよならともいわず帰って来ちゃった。これではとても、はげ頭を相手にしてたんじゃだめだ、こんな話しのわかんない親方はしょうがない。これは栃錦関御当人にぶつかってやろうと思って、大阪へとんでいった。

 ちょうど三月の大阪春場所の最中だ。お寺を宿にしている栃錦関にあって
「関取に家をこしらえてやるっという人がいますが、もらいますか」
「そりゃア、誰だって喜んでもらうだろう」
「いやほんとの話しなんで。けど関取、横綱にもなろうっという力士の家なんで、あたしん家のような安い家じゃないんですよ」
 関取はおとなしい人だから半信半疑の顔。

「家をもらうったって、なんにも条件はついていませんよ。でもあたしは考えたんですよ。やっぱりそれは、条件はつけないですが、ちょっと私が考えたんです」
 あたしは奥の手を出しかかったが、栃関は気がついてやしない。

「そこのうちにね、娘さんがいるんですよ」
「だれだい太郎さん」
「ほら、関取も親方と何回かいったことのある、銀座の開西割烹『次郎』の娘さんですよ」
「ああ、太郎さん、あの人なら知っている、あの人はしっかりしたえらい娘だ」
「で、関取、あんた好きかい」

「ああ、好きだ」
「嫁さんにしたらどうだ」
「うん、あの人だったら申し分ない」
「それじゃ、まあ仮りにここでだ、ここでは仮りの話しだけど−−先方では、何千万円という家を建ててくれるというんだから、関取がかわいいんだ−−つまり、娘さんをあんたにくれやってもよい、
ぐらいの気持でいるんじゃないかと、私はにらんでいる−−人の腹をさぐっちゃァすまないが−−そこで、あたしの考えでは、関取が娘を好きだったら、それもいっしょにくれるということになったら、関取、あんたどうしますか……」

「うん、それはもらうよ。喜んでもらうよ、あの娘さんだったら−−」
『次郎』の養女勝子さんは、山田組組長の娘さんだったわけだ。このときは、さすが心臓の強いあたしも冷汗をかいたね。もし関取が、家の方はもらうが、娘の方はもらわんといわれたら、あたしのお膳立はすっかり狂ってしまう。そこで、関取に話しを切り出すとき、

「きょうは関取、呼出し太郎じゃなく、一個の人間、社会人の太郎としていいますから。…」
と前置きしておいた。呼出し風情に、こんな話しをもちかけられて、そんな話しは大関としてのれないといわれたら、まずいことになる。どうしようかと思ったら、

「いや、太郎さん、あんたのいうことはなんでもきく、あんたが東向けといえば東を向くよ。とにかく、私のことは、ぜんぶあんたに一任するからよろしく頼む」
「間違いありませんね」
「いや、間違いない」

 ひょうたんから出たコマじゃない、家の話しから出た花嫁で、敵は本能寺にありって、栃錦関の意中の人をずばりと当てたから、いっちゃァわるいが、家の方はさしみのツマのようなもんだ。

さっそく両国に帰って来て、春日野部屋近くで、地所のあいているところはないか、ずいぶんとさがした。しかしなかなかみつからないうちに、角の車屋が一ノ橋を渡った千歳町一丁目に空地があるってんで、さっそくそこを借りた。山田組に連絡すると、すぐ工事にかかってくれた。

 それから春日野親方のところへいって、
「親方、地面がみつかりましたよ。栃錦という人はいい関取ですから、蔭ながら心配しているんです。あたし風情は口を出す身分じゃないんですが、家もこういうふうに段取りがつきましたので、ここで親方、栃錦関のかみさん−−」
 あとまで聞かずに親方はどなった。

「なに、太郎、栃錦に家内だって? だめだ、そんな話しはだめだめ」
「へえ、なにがだめなんですか」
「おまえも考えてみろ、いまにあれが横綱になった場合、家を持たしたり、家内を持たしてみろ、いっぺんに人気がなくなってしまう」
「そんなことはないですよ。いままでの横綱だって、みんな家だってかみさんだって持っていますよ」
「いや、だめだ、ぜったいだめだ」

「御当人に好きな人があったら、家もかみさんも持たして朗らかにしてやらなければいけねえと、あたしは思いますが」
「太郎、人気なんてものは、金や何かで買えるもんじゃない。おれも横綱になった経験があるから、この話しはだめだ」

 だめの一点張りだ。これじゃとりつくしまもない。そこで親方をいっぺんに怒らしてやろうと考えた。
「親方わかった。あんたはお相撲が日本一強かった。それは世間も認めているし、あたしもそう思っている。しかしお相撲の芸(技のこと)になったら、取り口からいって、栃関とあんたでは比較にならない。あんたは強かったが不細工で、栃関のそばへも寄れないねえ」

 さあ相撲のことをいわれたので、もと横綱栃木山の春日野親方はサーッと顔色が変って、目をむいた。怒らしておいて、
「では、さようなら」
「太郎、待てっ!」

「あんたに怒られたってつまらない、待てといったって、あたしは忙しいんだ、あしたのお米がないから、もらいにいかなくちゃならねえ。さようなら」

 とっとと、あともみずに家へ帰って来て、大阪の読売新聞へ電話をかけた。知っている記者に
「栃錦のおかみさんがきまったよ」
「え、ほんとか太郎さん」

「ほんとにもうそにも、そんなうそがいえるか」
「相手は、いったいだれだ」
「銀座の『次郎』の娘で、お勝っちゃんだ」
「ほんとか、こいつは特種だ」
 あくる日の日本中の新聞に、このニュースがパッと出た。

 これでは、さすが強情の春日野親方も初めて往生してしまった。もう日本国中にいっぺんに知れわたってしまったから、なんといったってだめだ。ここまで運ぶには、あたしも考えた。ひょっとしたら、栃錦にきまった女がどこかにいたら困ると思って、あちこち探ってみたが、やっぱりいない。そこで一芝居筋書をこしらえたわけだ。

 それから栃錦関の後援会長大橋定雄(共同印刷社長)さんのところへいって取持ちを頼みこんで、あとはすらすら事が運んだ。この年の秋場所に栃錦関が四度目の優勝をとげて、横綱に椎挙され、翌三十年一月の場所前に横綱披露、場所後に相撲の殿様酒井忠正氏夫妻の仲人で結婚式と、おめでたが二度重なって、あたしの骨折りも実を結んでうれしかった。

心配な呼出しの将来

 それにしても、ここ数年間に、相撲協会が組織が変ってきたんで、私たち呼出し組合のようすも変ってきた。私が定年でやめたときは六十八人もいたのが、いまじや、二十七人しかいない。

呼出しが、五十五で定年になるってのは、自分の老後ということをだれだって考えるわけだ。だから、上の者が身銭を切って、下の者を可愛がるということはできなくなってくる。元をかけて教育してやろうという者もなくなってくる。そうかといって、自分たちの生活費が高くつく世の中だから、女房や子供をおっぽってまで、弟子を可愛がるということに手が回らないだろうが、

これじや、よい呼出しは育たたない。協会だって、もうちょっと考えてくれなきゃァ、これからはいい呼出しは生れない。呼出しになろうという者望者も入って来ない。それに頭の回るヤツはやめていく。いい声の呼出し、姿のキリッとしたイキな者でも育てて賑やかにすれば、土俵だってパッと映えていいもんだ。呼出しだって土俵のりっぱなアクセサリーなんだ。それを、声が出ない呼出しを、出ない出ないといって、うっちゃっておくから、いけないんだ。

きびしくけいこさせて、可愛がるときは可愛がらなきゃあだめだ。呼出し組合のこの先のことを、いくら心配しても、キリがないが、私の七十余年の生涯は、いま振りかえってみると、何ともはや、お恥ずかしいことの連続で、われながらあきれはてている。しかし一生を相撲にささげて、ちっとも悔のない思いがする。幸わせだったと考える。

 私の生まれた旧市内本所区南二葉町(現墨田区亀沢町)は、関東大震災と戦災でまるっきり変ってしまった。変ったなんていう変りようじゃない。むかしおぽえている風景は何一つ残っていない。家の前に流れていた本所割下水といえば、本所七不思議のオイテケ堀だったし、芝居で名高い河竹黙阿弥さんのお宅とともに聞えた所だが、南北二つの割下水の面影など、今は補装道路
の下にもぐって、全く見当がつかなくなった。

 呼出しが声を出す寒げいこをした隅田川の百本杭あたり、よく鮒の釣れたところだが、今じゃ鼻をつまんでのぞきこむような、ドブ川になってしまった。わずか、あのころの面影を残しているのは、旧両国国技館のドームだけだが、それも、いまは日大講堂と名を変えてしまっている。

風景も変れば人情だって変っていくのはしかたがないことだろう。
 私は、その割下水の近くで生まれた本所っ子である。ちょうど五十歳で日支事変(昭和十二年)に会い、五十八で終戦(同二十年)を迎え、六十で久しぶりに明治神宮外苑の青天井相撲にめぐり合った勘定だが、七十七のこんにち、ほとんど病気というものを知らないくらい達者だ。

きっと小マメによく働き、よくシャベリ、よく飲んでいるからこうまで丈夫で 元気なのだろう。忙しいから病気の取りつくスキがないのかもしれない。が、ともかく、年をとるととかく昔のことを思い出す時が多いもので、いつかも千葉県の佐倉の興業に太鼓回りをしていたら、とつぜん六十七、八のお婆さんが、
「太郎さんじゃないの、私を憶えてますか?」
と声をかけられた。どこか見憶えのある人だと思って、よく考えて見ると、朝鮮でさんざん厄介をかけたあの女である。

「大郎さん、あんたはバクチ打ちの仲間入りしていたんじゃいけない。どうでもして早く相撲にかえんなさい」
といって、無理算段した財布から大枚百二十円もの旅費をこしらえて、私を内地に帰してくれた恩人の女であった。聞けば、佐倉の旅館で女中をしているという。なつかしさも一しおだったので、ぜひ国技館へ来てくれとその時は別れたが、とうとう姿を見せなかった。

その後、また佐倉で、お土産を売っているその婆さんに会ったが、それでも来てくれなかった。それっきり会って
いないから、おそらくもうこの世を寂しく去ったのではなかろうか…。

 また、大阪で別れた九州の女も、風のたよりにきくとその後天理教にはいって、熱心に「悪しきを払って」云々をやっていたそうだが、すでにばったり消息が絶えて十何年かになる。おそらくあの女も、今はこの世に亡いと思っていいだろう。

今年は、秋が喜の寿の年で満七十七になったんだと、ひとにいわれて、「ヘェー、もうそんな年になったのか」と、自分でおどろいてしまうだが、明治、大正、昭和と六十余年にわたって相撲界に、まがりなりにもめしを食わしてもらったことを思えば、私はほんとうによい星の下に生まれたもんだと、

がらにもなくしんみりするようなこともあるこのごろ……場所がはじまると、大阪であろうが九州でもあろうが、若い者に負けないくらい、えらくはりきってとんでいくが、終るとがっくりしてしまうのも、やっばり気は若くても、年はあらそえないもんだと、しゃくに
さわるが、少しはさとってきた。

 しかし、喜の寿の祝いだけはしてくれるなと、親しい人々や記者先生たちには断わりつづけている。そんな大それたお祝いなんてしてもらって、後味わるく、ぽっくりいってしまったんじゃ……と、せっかくの御好意もかんべんしてもらっている。

息のあるかぎり、相撲界の片隅においていただき、お世話になった人たちへの罪ほろぼしと、先に旅立つ人たちの供養のためにも、太鼓の観音様を通じて今後も御祀りをつづけていきたいと思っているりまだまだ大鼓のバチを持つ腕は衰えていませんよ…。
                おしまい

ベースボールマガジン社
呼出し太郎一代記、ページ236〜260
挿絵、伊藤豊一画
著者 前原太郎

後記、呼出し太郎一代記について

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