呼出し太郎一代記、2

前原太郎


一、巣立ちの頃、後編

雪の中を歩行十三里

 一文なしの河原乞食となったわれわれ四十人は、明日からの食事からして心配せねばならず、食べさせてくれるところをさがして雪の中を放浪、十三里の道を雪をむさぽり食べながら歩き続け、弘前の高杉藤太郎親分の所へころげこんだ。

 当時はバクチが全盛の頃で、どこへ行っても大親分がおり、相撲の興行には、まずこの親分に会って仁義を通し、いろいろと面倒を見てもらうことになっていたので、食いつめたわれわれが、頼って行く先はここよりほかになく、

高杉親分を訪ねたが、運の悪い時は悪運の続くもので、おかみさんが肺病でいま息をひきとったばかりのところへ行きあわせ、
これではいかに困ったものの面倒を見ることに男をかけている親分でも、この取りこみでは手のほどこしようがなく、せっかく期待したわれわれはしばし呆然となって、髀肉の嘆をかこたねばならなかった。

 そこで、われわれはまたどうしたらよいものかと相談したが、妙案も頭にうかばずアテなきさすらいを続けて、さらに三里の道を歩き、十日ばかり前に相撲をうった黒石へもどった。で、歩
きながら、私の思ったことは、食べるあてがない人間どんな苦労もできるということで、空腹にクークー鳴く腹にむやみに雪ばかり押しこんで、黒石の小野佐平親分を訪ねた。
 この小野親分は非常に太っ腹な侠客で、事惰を話してわれわれが、
「親分願います」
と頼んだところ、
「そりゃ気の毒だ。よし引き受けた。ウチにおれ!」と一言で四十人の世話を承知して下さった。
 その頃の侠客は、今の顔役のように弱い者いじめをするような人はおらず、困って泣きついてくる者があると、自分の物を売ってでも面倒を見て、それを真の男の道としていた。

 小野親分のもとで、われわれ四十人は十二月の初めから、三月の末に至る約四か月間養ってもらったが、その間われわれは本当に世話のなりっぱなしで、相撲取りは昼間は稽古をするほか何もせず、私は風呂たきさえすれば、後はただ遊んで食べさせてもらった。
 そして、東北地方にも春がきて雪の間から、黒土が顔を見せるようになった四月初め、北海道の函館に京都相撲が巡業して来たので、小野親分はこの一行にわれわれが合併するように話をつけ、新しい着物を一枚ずつ着せてくれた上、汽車賃として小遣いまで下さって函館へ渡った。

 それからの、北海道での巡業も苦しかった。しかし、われわれは苦しいことを覚悟の上だったから、困難をしのいで北海道の隅々までえんえん五か月にわたって相撲を打って歩き、八月末函館へ帰り着いて、いよいよ青森へ渡って東北路へはいろうとしたが、ここで、またわれわれの行く手に、至難の道が待ちかまえていた。
 それは一行が予定していたコースを、人気最高調時代の梅・常陸の一行が巡業して歩いていたので、これでは、金看板のないわれわれ一行の相撲に、人気の沸こうはずがなく、最初から不入りが予想されたので、進退全くきわまった一行は、再びど
うしようかについて協議をしなければならなかった。

 われわれと行をともにしている京都相撲は、二百人の力士をかかえて全盛を誇った頃からくらぺて、陣容も六十人に減り、本場所もやったり、やらなかったりという下り坂のどん底に呻吟していた時であったから、実力からみても東京相撲に比して、一段も二段も格が下がっていた。

 東京相撲の幕内から脱退した大碇紋太郎が、京都では堂々と横綱をはっていたが、大碇とともに陣幕、松ケ枝、手柄山、鶴ノ森などがこの一行の主体であった。

アイヌカ士が金看板

 昨年の轍をふみたくなかったわれわれ一行は、函館で今後の巡業の方法や旅程について慎重に熟慮した結果、アイヌ人を連れて来て、幕下力士との対抗相撲を看板にして売り出すことを考えついた。
 そして、早速身体中毛むくじゃらのアイヌ人が、四つに組んでいるビラを作って宣伝を始めた。この宣伝には、どうやらファンも相当に期待をもったらしい。

 ところが、いざくだんのアイヌ人を連れて来る段になり、その使者に立って、無事彼等を連れて来る度量のあるものの人選に、親方連はおデコを集めて相談しなければならなかった。
そして、「太郎なら小細工もきくし、アイヌ人を連れて来るには彼が一番ふさわしい」
と話が決まり、「君は頭がいいから……」とさんざんおだてられたあげく、私はとうとうアイヌ部落の浦川の在(日高の国)へ派遣された。つまり、アイヌ人についての交渉は、すべて浦川の侠客小林親分を通じて人選を頼んであり、その人の手から、二人のアイヌ人をもらい受けることになったのである。

 しかし、そのアイヌ人というのは実にインチキで、一人は白いヒゲを胸の辺まで伸ばしていて、付近では何と「天皇陛下」というアダ名されるシブチャリという名前の七十歳の老人で、いま一人は年は三十ぐらいの壮年のアイヌ人だが、「アメリカン」という通称だけよりほか、名前も歳も知らない代物、ただこのほうだけはいかにもアイヌ人らしく、顔中ヒゲぽうぽうで、宣伝ビラとそっくりなアイヌ人であったから、私はこのアメリカンの相撲に期待をかけて山を下り、一行の待っている函館へ急いだ。

 ところが、困ったことには、この二人のアイヌ人は酒を飲まさないと歩こうとせず、道の一里も歩くと、
「シャモ(主人)酒ノマセ!」
と酒を要求、あまりたくさん酒を飲ますと、酔っはらって歩けなくなるので、一里ほど歩くたびに一合ずつの酒を飲ませて、苦心さんたん浦川まて下った。そこからは汽車なので比較的楽な旅行だったが、何しろ見るもの聞くものがすべて初めてというアイヌ人なので、汽車に乗ってもただウロウロするばかり、
そして「君たちは相撲に買われてきて、これから相撲をとるのだぞ」といっても、相撲そのものを知らないので話にならず、
組合へ合流すると、まず彼ら二人に仕切りから教授することになった。

 その師匠役も、お前が連れて来たのだからと私に任され、いざ稽古となったが、アイヌ人はめったに肌を出さない人種なので、裸になって稽古しろといってもこわがるばかりで、なかなか始めようとせず、ここでも酒を種に口説きつつまず廻しをしめさせ、仕切りから教えて、見世物として土俵へ上がらせても恥をかかない程度の相撲取りにしようと努力した。

 ところが、相撲に一番たいせつな立合いを教えるようになって、彼らの熱のなさにとんと閉口させられた。 しかし、それも無理はない、先にもいったとおり、彼らは相撲そのものがわからないので話にならず、立合いはこうするのだぞと見本を示し、「ヤッ」とかけ声をかけて、すばやく立って肩ロをつくと、ひょろひょろとひっくり返り、
「シャモ、何スンバ」
と逆につっかかる有様で、いくらパッと立てといっても「ヤアー」と小さな声を発して、ふわふわと立ってきて全く相撲にならず、しかも、片方は七十の爺ちゃんなので、相撲を取るといっても、最初からインチキ相撲と知られてしまいそうだ。
 体がよく男らしいヒゲを生やした「アメリカン」に、ただ一筋の希望の光りをつないで興業をうつことになった。

珍無類の相撲興行

 それでも、アイヌ人対力士の対抗相撲の宣伝は、東北巡業のハナから大変な人気を呼ぴ、ふり出しの山形県の米沢では、乗りこみから市民の熱狂的な歓迎を受けた。
 この思わぬ歓迎に、まずまごつかされたのは当事者側のわれわれで、もともとアイヌ人の歩きつきの悪いのは、日頃の動作を見て知っていたから、そのカムフラージとして二人のアイヌ人に赤い陣羽織を着せ、ヒゲもそろえて見るからに立派そうに仕立ててあったが、歩かせたら途端にその権威がフイになるので、更に慎重を期し、駅長に頼みこんでホームの中へ人力車をのりこませ、旅館では玄関へカジ棒を置き、歩く姿を全然見られないように警戒、ちょっと見にはいかにも強そうに見せかけた。

 街はアイヌ人の珍らしさで、すごい人気だ。しかもアイヌが相撲をとるのは、これは日本でも初めてだとあって、一番の太鼓を叩く前のうすぐらいうちから、どんどん相撲場へお客がつめかけ、相撲の始まる頃には文字通りの超満員で、このアイヌ対抗の呼び物は大成功、われわれ一行としても、巡業再開始の四月以来初めての大入りであった。

 この超満員の観客の見たいのは、何といっても取組の最後に組まれたアイヌの相撲で、番数もとり進み見物が固唾をのむうちに、いよいよアイヌカ士の登場となった。ところが、見物が期待をかけるのとは反対に、われわれはこのアイヌ人の相撲に不安がつのるばかりで、アイヌカ士の廻しをしめた姿が何とも板につかず、その格好を一見しただけで、もうおかしくって見てはおれなかった。

 しかし、そうかといって大々的に宣伝した以上、何でもかんでもこの二力士に相撲をとらせねばならぬ、ワリもそれゆえに最後にくんだのである。
 さて、土俵へ上がった両力士、日本側は真剣で、相撲取りの名誉の為にもと、アイヌカ士に対戦した。
アイヌ方の先陣をきって土俵に上がったのは、見るからに強そうなアメリカン。せめて真剣さだけでもまねてくれたらよかったのだが、本土俵へ上がっても例の調子で、
「ヤッ」
と威勢よく立った力士に対し、
「ヤァー」
と、いかにも気合抜けの調子でうけて立ち、四つに組みあったまではよかったが、押せば腰がぐらついて、フラフラと土俵を下がり、何でもないような投げ技にあっ気なく土俵にはってしまい、まるっきり、全盛時代の双葉山と私がとったみたいな相撲となって勝敗が決した。この余りにもつまらない相撲に、期待をかけていたお客さん方は、
「何だ、この相撲は!」
とすっかり怒り出し、ガアーガアーと文句をいい出したが、
「もう一番を見て下さい!」
と懸命になって見物をなだめすかした。しかし、お客は今の相撲で、すっかりアィヌ力士の実力に愛想をつかしており、そこへ登場した二人目が七十歳の白髪の爺さんだったので、
「インチキだ、インチキだ」
とわめきたて、
「勧進元を出せ、親方を出せ」
と意気まいたが、勧進元も親方もこれはとっくに承知の上だったから、この大入りにすっかり気をよくし、ホクホクの恵比須顔で、金を持って雲を霞み逃げ出していたので、責任者は一人もおらず、残っていたのは、相撲取りが五、六人とアィヌ力士の二人、それに土俵を受け持っていた私だけで、見物の不平は全部子供の私に集中砲撃された。
 しかし、アイヌ力士の強弱は宣伝文句の問題外で、インチキだといわれても相撲は見せたのだから、決してウソをついたわけではなく
「この相撲は余興としてやったまでで、皆さんは相撲を見るだけは見たのだから……
と、説得、ようやくのことで、土俵へまでかけ上がって激昂する見物をなだめて解散させた。

御見物衆わずかに四人

 ところが、そのむくいは二日目の相撲になって現われた(米沢での相撲は二日興行だった)。

この日は天気も悪かったが、初日の大入りとはウラはらに観客わずかに四人、さすがの私も、これにはきまりが悪くって、街を歩くことができなかった。で、二日の相撲はこの米沢でこりたから、その後はいわゆるハネ立ちの一日相撲を行なって、アイヌ合併大相撲を売り物に、順ぐりに東京へのコースをだどって行った。

 アイヌ合併相撲の宣伝は、どこへ行っても大いに人気を呼び成功を続けて、明治三十九年の正月に横浜へ帰った。
 日露戦争の終った翌年だ。ところで、こういうやり方で、たまたまわれわれが興行的に成功したのは、当時はまだ新聞が満足に行き渡っていなかったため、いかにインチキな相撲をうっても、そのインチキぶりが、翌日の次の興行地まで伝わらなかったからである。
何しろ、当時は一行の主将である横綱に休まれると、その日の入りに大いに関係するので、一行中のかっぷくのいい力士を休んだ横綱の替え玉として、結構一日の興業をつとめることもできた。

横浜での相撲は元日、二日、三日の三日間の予定だったが、ハマっ子は気が荒かったから、こんなインチキを通そうものなら、それこそ忽ち張り倒されてしまうだろう。で、横浜ではアイヌ合併大相撲を売り物にはしたが、申しわけないけれども、連日の相撲にアイヌ力士は取りつかれて病気になり、とうてい土俵がつとまらないからということにして、さすがにこのインチキ相撲だけは行なわなかった。
 そうして、正月三日間の相撲を最後に、北海道から東北、奥羽と回り、一年半に及んだ旅相撲に一まずピリオドをうって、組合の本部がある京都へ引揚げることにした。

 われわれは横浜を出発する時、これまで一行の看板となって大いにかせぎ、貧乏な組合の台所
をまかなってくれた二人のアイヌ力士のうち、屈強の「アメリカン」だけを残し、あまり役立たなかった七十爺いの「天皇陛下」の方を故郷へ帰すことにした。
「この者はアイヌ人です。故郷の北海道へ帰るのですが、地理にくわしくない上、国語も余りよく話せませんので、もし道に迷ったりしていましたなら、帰る方法をていねいに教えてやって下さい。よろしくお願いします」
と書いた木札を首にぶらさげて、若干のお金を持たせ、浦川へと旅立たせた。さすがに、別れる
となると「天皇陛下」の顔が、ノンキ者の私にもまともに見られぬような思いがした……。

呼出し太郎一代記 ページ24〜32 第一部、巣立ちの頃
ベースボールマガジン社
挿絵、伊藤豊一画


二、旅がらす、前編へ続く

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