呼出し太郎一代記、3

前原太郎

二、旅ガラス、前編

台どころは火の車

 明治三十九年のお正月、前年講和条約
の調印もすんで、勝った勝ったで日本中が浮かれているまっ最中、私の属していた京都相撲の一組合は横浜まで帰りつき、看板の一人アイヌの老力士を
 北海道の故郷へ送り返し、ひとまず、あまり収穫もなさそうな各地巡業を断念、組合の本部の所在地たる京都へ落ち着くことにしたが、やっばりわれわれは、相変わらず人気の高い、中心力士のいない悲哀をかこたねばならなかった。

 それは当時の関西が、大阪相撲の全盛時代だったため、そこへわれわれがいかにアイヌ対抗相撲を売り物に、鳴り物入りで乗りこんでみたところで、勘定高い上方人の興味をそそらず、
巡業先の売れ口もなく、寂しく四か月ばかりが過ぎ去った。この間、くる日もくる日も稽古ばかり(もっとも、私は相撲取りでなかったから、

協会の寄生虫的存在で無為徒食していた)の励みのない毎日が続き、力士も呼出しも毎日が単調すぎ、退屈して悪いことばかり覚え、私はこの間に「丁か半か」のカケごとに興味を持つようになった。

 稽古ばかりをくり返して、巡業に出られなかったたたりは、すぐに組合の台所にまで響き、アイヌ合併のインチキ相撲をぶって歩いて、粒々辛苦蓄えた汗の結晶も、四か月もの間六十人の口を満たしているうちに、またたく間に雲か霞のように消え去った。桜の花が散る頃にはすっかり行きづまって、この大世帯を支えていくための新しい方法を考えねばならなくなり、親方衆が額を集めて何とかいい打開策はないものかと会談を行なっていた。

 協議の結果、今の一行のままで国内を巡業して歩いていては、去年の二の舞をくり返すにきまっているという結論が出て、親方衆の話題の焦点は、アイヌ対抗相撲のような何か目先の変わったものはないだろうか、の一点に集められた。

だが、妙案というものは、なかなか浮かばないもので、それより一つ外地へ進出しようじゃないかと話が変わり、ちょうど京都相撲協会の取締役で草風弥惣右衛門という人が朝鮮にいるのをこれ幸いと考え、
「われわれ一行は、アイヌ合併大相撲で内地で大好評をうけたのですが、今度朝鮮へ巡業したいのです。そちらの受け入れ態勢はどんなものでしょうか?」
という意味の手紙を書き送った。

草風取締からは折り返し、「アイヌ合併の大相撲の趣向は非常に面白いと思う。私が勧進元になって責任をもって興行するからすぐに出て来い」
との返事を受け、手紙とともに旅費の足しにしろと小切手が同封してあった。

朝鮮への先乗り

 そこで、呼出しの私が土俵造りのため、先乗りとして一行が渡鮮する十日前に、釜山行きの船に乗った。アメリカに憧れた私が、日露戦争の勃発で話が自然消滅したため、やむなく脱走の一行とともに北海道を放浪し、さんざん貧乏したあげくにアイヌ相撲の世話役となり、今度は六十人の相撲取りが死中に活を求めて、異郷の地へ巡業するための先乗りとなったのであるが、これも面白かろうと私は勇躍旅立った。

 革風取締の人気は、京都の力士時代から相当なもので、それだけに方々へ顔が売れており、祇園や宮川町、先斗町の粋筋にもたくさんのファンがあったので、その御利益で先発する私に、これらの関係先から、
”勧進元・草風弥惣右衛門さんヘ〃と染め出した幟を数十枚も渡された。

 上陸第一歩の興行は、もちろん内地に一番近い釜山で打つことに話が決まった。草風取締は京都でいい顔役だったのと同様、朝鮮でも大親分で、釜山の顔役連に渡りをつけ、準備はおさおさ怠りなく進められた。
 朝鮮の人たちも初めて乗り込んで来る日本の相撲の一団に、大いに期待して初日の蓋が開かれるのを待った。

 釜山の町は、一行の本隊が乗り込む前日、内地からの船が着く渡止場から相撲場までその間十丁余りの道のりがあったが、道の両側は私が持ってきた色とりどりに染めわけられた幟で、きれいに埋めつくされ、当日は波止場に草風取締の名声で、町の名士と呼ばれる人々や、花柳街から芸者衆が総出で、一行が乗った船の着くのを今やおそしと待ちかまえた。

 私はこの豪勢な出迎え陣を見て、背筋にヒヤリと冷汗が流れるのを感じたものである。全くの話が、この時の私の気持は、穴でもあればはいりたいといい言葉のままで、協会が貧乏だったのと同様、力士たちも負けずおとらずの文なしで、京都にいる時でさえ、満足なふうができなかったのだから、この巡業に出て来るのに、はたして何人が相撲取りと呼ばれるのにふさわしいふうをしてくるか、それを考えると一刻も早くこの場から逃げ出したかった。

 当時、われわれ一行の力士たちは、相撲言葉でいうショッバイ者ばかりで、このような華やかな出迎え陣の前を、ゆうゆうと歩ける力士はただ一人もいなかった。
 やがて船が着いてタラッブが下ろされ、まず明荷をかついだ取テキたちが勢いよくかけ下りて来た。明荷といっても、そこここに穴のあいた行李で、これをかつぐ取テキたちの服装は見るに忍びないほどのお租末さ、しかも冷飯草履ときては、ルンペンとさして開きのない格好で、正に放浪の旅人という風態、出迎えの人たちは、まずこのふうの悪いのに驚いたようだった。
それでも、関取衆だけは立派な姿で降りて来るだろうと期待していたようだが、そのまともな力士が一向に現われない間に、しんがりを一行の人気者アイヌカ士が赤い陣羽織も颯爽と、腰をふらつかせて下りてきた。
「おい太郎、一行はこれだけか?」と草風取締が言った。
「そうです」
と、私はビクビクして答えた。

「なにっ、これでしまいか。俺も相撲界で草風と呼ばれた大関だ。そして協会の取締として、こんな貧相な相撲取りばかりの相撲をうてると思うか。宿賃も帰りの汽車賃もやる。さっさと京都へ帰ってしまえ!」
と、えらい剣幕でどやされてしまった。
しかし、取締が怒るのはもっともな話で、巡業をどうしても売り込みたかったから、いいことばかりを知らせてあったために、この結果となったもので、みずから墓穴を掘ったといえるだろう。一行六十人の相撲取りで、これはと思われる着物を着て、帯をしめていたのはわずかに三人、幕内の関取の中にも、五月だというのにドテラで細帯という、見苦しいのが混じっている有様である。

 慣れた土地を出て異郷に新天地を求め、はるばる朝鮮へ渡ったのに、ここまで来て巡業を断わられてはわれわれも面目が丸つぶれで、すっかり困ってしまい、二、三日取締の暖い言葉にすがって釜山に逗留を続けたが、いつまでもこの土地に踏みとどまっていても相撲をとれないとあっては、やはり内地へ引揚げたほうがよいだろうと話がきまり、泣く泣くわれわれ一行は次の便船を待つことにした。

大阪相撲との合併興行

 そこへ偶然というか、苦境に追いやられたわれわれに、実に耳よりな話が海を渡る風に乗って内地から伝わってきた。それは、この年の春場所を終えて、台湾へ巡業に出かけた大阪相撲の一行が、九州へ帰り着いた時に、そこで待遇問題などがもとで大江山を初めとする小松山、鬼面山、秀ノ森などの一騎当千の有力名士が十数人脱走したというニュースで、これら十数人の力士は、博多で素人相撲に加わって相撲をとっているということだった。

 この報を得た一行の親方衆は再ぴ話し合いをし、合流を呼びかけることに衆議一決した。それというのは、この力士たちが加わると、相撲の一行としての態をなして立派になるからで、こうなれば朝鮮から満洲へ渡り歩くこともでき、当分は食べる方の心配もなかろうと、直ちに使者が博多へ派遣され、これら十数人の力士と交渉、話が成立して一行のメンバーに加わって来た。

 この合流部隊の顔ぶれを見た草風取締はこれならよかろうと、釜山で相撲を打つことを許してくれ、われわれを呼び寄せた時以上にカを入れて方々ヘ渡りをつけ、万端の面倒を見てくれることになった。
 大阪相撲から来た大江山松太郎は東京から流れて行った力士(明治三七年一月場所西前頭四枚目で脱走、太刀山とも一勝二敗一引分。能登の国穴水町出身)だが、回向院での本場所相撲にも、彼一人で見物が呼べるといわれたぐらいの人気相撲だ。

その大江山が東の大関となり、西の大関が京郡の手柄山、関脇に陣幕、小松山と並んで豪華きわまる番付ができ上がった。釜山での
相撲は三日間だったが、三日とも大入り満員、釜山を打ち上げると仁川へ行き、ここで一行中から下っ端の三十人ばかりを引っこ抜き、これを北朝鮮の元山の方へ追いやった後、改めて一行を編成して、奥地への旅にも支障を来たさない名の売れた力士五十人ほどで、京城を振り出しに、平壌から満洲の安東へはいった。

 どこへ行っても一行の人気は大したもの、内地の人たちは久し振りに見る相撲を懐かしがって集まって来るし、土地の人たちは相撲とはどんなものだろうか、との好奇心から続々とおしかけて来た。

 われわれは安東から旅順へも行った。まだ日露戦争の戦火が取まりきらない時で、二○三高地へ登ると、旅順港には広瀬中佐などが決死の働きをした閉塞船の帆柱が見え、まだ戦死者の骨がそこここに転がっており、戦争の余塵が到る所にただよっていた。私はこの時すでに十八で、気持の上では大人になったつもりでいたが、まだまだ子供気分が抜けきっておらず、大砲の不発弾
を拾って帰り、これはいい記念だと一人で喜んでいた。ところが、
これを見た旅館の主人は目を白黒させて、
「こら、そんなものを持って来ちゃ危ないじゃないか。いつ爆発するかもわからんのだぞ」
とがなりたて、私が、
「父さん大丈夫だよ」
と平気でかかえこんでいるのを無理矢理にもぎとって海へ投げ捨ててしまった。お蔭で、私は少年時代の貴重な記念品を取り去られ、今もって惜しいことをしたと悔やんでいる。

太鼓のお祝儀二百円

 関取連の、芸者衆からのモテ方は大したもので、相撲を打ち上げる頃になると、人力車が列をなして力士の帰りを出迎えに来ていた。当時の満洲は、戦後の好景気にあおられて非常に金回りがよく、ウソみたいな話だが、私等のような若年の呼出しでも一日の手取りが二百円以上もあり、大名気分を存分に味わうことができた。何しろこの頃、東京では職人の日給が五十銭で、よっぽど腕のよい者でも一円しかもらえない時世だったから、初めの間はこのお金はニセ札じゃなかろうかと心配した。

 が、すべてが正夢で、太鼓に回ると、一軒ごとにきまったようにニューチャン金庫の五円札が一枚ずつはいっている祝儀袋をくれ、太鼓は毎晩四、五十軒はふれて回るので、二百円ぐらいはじきにたまったものである。

だが、こういうように一度にあぶくのようにはいってくる金は、なかなか身につかず、すべてをバクチに打ち込んでしまって、いつもすってんてんになるまで使ってしまい、たまにもうけることがあると気が大きくなって浪費するから、財布の中はつねに空っぽだった。

 今だからこんなことも書けるのだが、私は十四の年にバクチの味を覚えた。お蔭で私はその後いかに寒い時でも、着物を二枚着たことがなく、着物を買う金は惜しいが、バクチでスル金は惜しくないというほど、それが病いこうこうの状態、この満洲巡業でも暇があると「丁だ、半だ」とやったもので、座敷でやっていると周囲がうるさいから、朝早く櫓に上がり、太鼓を叩きながら熱狂したこともたびたびあった。

 関取衆が興じているバクチ場は、実入りのいい人たちばかり集まっているのでスケールが大きく、札束が無造作に山とつみ重ねてあり、スルのも速かったが、モウケもなかなかに大きいようだった。で、このように恵まれた巡業を続けたわれわれも奥地にはいるに従って、だんだんショッパクなり、それなのになおバクチをやめなかったため、ついには一行のみんなが元どおりの一文なしとなって、鉄嶺という所へ来て、とうとう協会の財布もすっかり底をつき、次の巡業地への汽車賃もなくなって、晩飯を食べられないほどの苦境に落ち込んでしまった。

 われわれ一行は、旅順の相撲を打ち上げると大連へ行き、虎公園に小屋がけの相撲場をつくり、入口には当時まだ珍しかった電気を使って装飾したものだが、その大連から、いよいよ奥地へはいり、永廊から前記の鉄嶺へ行った。

 鉄嶺は、当時日本人が移住している満洲の一番奥地で、それもほとんどが兵隊ばかり、ここでこれより奥に進むことは、それだけ苦労するばかりだと教えられ、しかも、季節が九月半ばで寒くなりかかってきていたので、内地へ引揚げることにした。前にも書いたように、協会はここで文なしとなって旅費のやりくりにもこと欠いたので、軍隊へ援助を頼むべく、司令官鮫島中将のもとへ泣きついた。

大陸を無銭旅行

 当時の満洲は陸軍が絶対的な権力をもって君臨し、鉄道の管理もしていたので、軍へ頼めば何とかしてくれるだろうと、親方衆は司令部へ出かけ、釜山までの客車便乗券を書いてもらった。

その頃の軍隊は大変に威張っていたから、一般人にはこんな便利をはかってくれなかったが、そこはチョン髷の有難さで、六十人に近い放浪の大部隊に、溝洲から朝鮮まで無銭旅行を許可してくれたものである。
 われわれは汽車に乗り込むと、久しぶりに内地へ帰れるという嬉しさから、ふところにお金が一銭も残っていないのも忘れ、ゆうゆうと腕を伸ばして、ふんぞりかえった。ところが、汽車が八日間も走った頃、とある駅で君たちの持っている便乗券の書き方が悪い、この切符はここまでのものだからと下ろされてしまった。

ブラットホームの駅名板を見ると奉天で、時計は九時をさしている。命令されてわれわれは汽車からおりたが、さてひと晩をどうして過ごそうかとまごついた。
 季節はまだ九月だったが、満洲の夜はもう相当に冷え、その上朝から何も食べていなかったので、寒さと空腹がにわかに腹の底にしみわたり、もう立っている元気もなくなった。だが、そうだからといって、いつまでも駅にへたばっていることもできず、駅前をうろついて、どこか一文なしのわれわれをタダで泊めてくれる有志はなかろうか、とさがし歩いた。
しかし、当時の奉天は駅前といってもさびれたもので、六十人を一度に泊めてくれるような家はなかなか見つからず、一同みんなすっかり困ってしまった。
 ところで捨てる神あれば助ける神ありで、幸運にも兵隊が露営している所へぶっつかった。早速一行の親方が隊長に面会を求め「兵隊さん、ワシらは内地から来た相撲の者だが、釜山へ行く途中で切符の事き方が間違っていると、この奉天で汽車から下ろされてしまい、泊まるところがないんで困ってるんです。すまんですが、今夜ひと晩だけテントの中へいれてもらえんでしょうか」
と頼み込んだ。幸いなことに、この相手の将校は

なかなか物わかりのいい人で、われわれの申し入れを簡単に承知してくれ、そこでヤレ安心と私たちは露営中のテントの中で一夜を明かすことにした。

呼出し太郎一代記、ページ35〜46、第二部、旅ガラス
ベースボールマガジン社
挿絵、伊藤豊一画


二、旅ガラス、後編へ続く

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