呼出し太郎一代記、5

前原太郎

三、雄飛の夢、前編

うち続く難行苦業

 奉天の陸軍部隊の好意で、どうやら全員が無事に、内地へ帰って来ることができはしたものの、
われわれの身なりは、まるっきり夜逃げ同然のみじめさで、五か月前、草風取締に招かれて、初めて朝鮮へ渡った時といっこう変わりばえせぬ哀れな姿だった。
 しかも、協会の懐中は相変わらず寂しいかぎりで、あるものといえば、わずかに奉天を出る時に軍に恵んでもらった百五十円のみ……。
 
それはなるほど、当時は、十円もあれば一人一か月けっこう食べてゆけた世の中だったから、百五十円というと相当大金である。だが、まかない口が六十人もあっては百五十円の金ぐらい、ウカツにしてた日には、一瞬にしてけし飛んでしまう。
 われわれは内地へ帰ることができて、ホッとしたのも束の間、体む暇もなく直ちに、明日の食料を求めて巡業に出て行かねばならなかった。

 そこで親方衆は、下関に船が着くのと同時に九州へ渡り、この土地の親分に仁義をきって世話になることを頼み込み、方々の親方衆へ連絡を取ってもらって、一行の売り込みにとりかかった。

そして十日ほどたった頃、ようやく「汽車の便もない片田舎だが、相撲が売れた」と先発の親方から連絡があり、そこから先のことは、運にまかせるよりほかはないと、商売道具のはいった破れ行李を肩に、私も生まれて初めての九州路に足を踏み入れた。
 行く先は、なるほど、と思わせるばかりの田舎だった。すごい山の中で、季節はもう十一月となっていたから、いかに南の国の九州とはいいながら寒さは日増しに加わるばかり。
 ところが、私は着たきり雀で、ほかには一枚の着物の持ち合わせもなかったので、毎日ガタガタ震えながら旅を続けた。しかし、その頃の相撲はみんながみんなこんなあわれなものであったわけでない。

梅、常陸、大砲と三人の横綱を並べた東京相撲の羽ぶりは大したものだし、またこのほかに、大阪相撲が関西で絶対的な力を持っていたので、われわれ一行は、この二つの相撲の人気の前にいよいよ影が薄くなり、世捨人のような存在で、私はせっかく東京相撲へ入門しながら、ダダをこねたばっかりに、このような苦しみを味わねばならなかった。

 苦しい毎日ではあったが、世間はよくしたもので、大関の大江山関一人の人気を売り物にした小さな一行の相撲でも、気の毒だと思ってか、その後順調に売れ口がつき、乏しいながらも食料の方の心配もなく、その年、すなわち明治三十九年を送った。
 そして、明治四十年のお正月は久留米で迎えた。久しぶりのこのような都会での相撲に、一行は寒さにもめげず、正月だというの
で大いに張り切った相撲をとってお客さんを喜ばせた。この辺では、正月に相撲が来るようなことが、いまだかつてなかっただけに、予期以上の大入りで、勧進元はホクホクだった。

行司に転向して

 私はちょうどこの久留米での相撲から呼出しを廃業して、行司に転向した。それというのは、一行のたった一人の行司である三門さんという人が爺さんであったため、山の中を歩いているうちに寒さが身にこたえて、坐骨神経痛が出て土俵を休んでしまい、どうしても行司が一人足りなくなったからで、親方が、

「太郎、お前一つ三門さんに代わって行司をやってくれんか」
と私に命令し、私自身としても、あの行司の裃を着ることに、大変憧がれていたので、すぐに二つ返事で行司になることを承知した。
一方呼出しの代理は、声さえよければ、経験がなくともすぐにつとまるが、行司となると、相撲の勝負を見きわめなければいけないから、そう簡単には新しい人をやとうわけにはいかず、親方もなかなかうまいことを考えたもので、こましゃくれた生意気者ではあるが、一応相撲を知っているということから、私を行司に転用したのだろう。

 初めて紋付を着、裃を着けた時、私はなんとなく今までよりも、人間が一枚がた利口になったような気がしてならなかった。で、行司になりたてのしばらく、私は慣れたいゆえもあって、しごく神妙に土俵をつとめた。親方衆は私という人間の、余りにも激しい変わり方に驚いていたが、それもほんのしばらくの間のこと、すぐに化けの皮ははげて小使銭に困った時、この紋付と裃とを質入れして、金を借りてしまった。

 こうして裃を殺して、遊んでいた時はいい気なものだったが、さて翌朝にいざ相撲となって、私はすっかりあわててしまった。組合の持ち物である行司の衣装類を質入れしたのだから罪は重い。
 いかにして言い訳をしようかと考えたところ、ここは仮病を使うにかぎる、という妙案が浮かんできた。そこで、私は何食わぬ顔で床へ入り、フトンを頭からひっかぶって腹が痛い痛いと唸り出した。
 
心配したのは一行の主だった人々、中でも若者頭は、次の巡業への出発の時間のこともあって、大騒ぎで、
「太郎どうしたんだい。痛むのか、お前がいないことには俺たちは困るんだし行司がおらんでは、相撲が打てんからなあ。どうしても起きられんかい。一行のみんなのためを思って、少々の無理をきいてくれよ、恩にきるぞ!」

と、青くなって私をのぞきこんだ。頭(カシラ)の真剣な顔、それはフトンの中に小さくなっている私には、とうてい見ることはできなかったけれども、その顔をよういに想像することができた。妙に気張った顔かたちを思うと、ひとりでにおかしさがこみあげて笑いをこらえるのに難儀したが、ここで吹き出したのでは、すべてが水の泡、話し合いがうまくいくかどうかの別れ目と、すっかり慎重になり、柄にもなく小さな声で、
「実はな、カシラ」
と、おもむろに切り出し、
「行司の装束がありませんので……」
「どうしたんだ?」
「はあ、小遣いに困って質へ……」
「この野郎、なんだ人を腹痛だとだまして心配させやがって、大人をなぶるのもいいかげんにするものだ。小僧っ子のくせにロクなまねをしやがらん」
 私のいいわけがいよいよ本題にはいってきかかったところで、頭の顔色は、今までの青かったのが赤く変わって、カンカンに怒ってしまった。しかし、いくら怒っても現に行司の装束がなく、また、私を追放してしまうと満洲での二の舞を演じることになるので、そうそういつまでも怒っていることができない。「他に代わりの行司がいない」これが、あくまで私のつけ目である。
「今度から、こんなことをしたら承知せんぞ」と、かたく申し渡されて、組合で衣装を質受けしてくれた。

 一度覚えたこの味はなかなか忘れられるものではない。悪の習慣というものは恐しいというが、全くその通りで、私は小遣いに困ると、さかんにこの手を使用して、協会から足りない小遣いをせぴり取った。
 今から考えると、よくもこんな悪いことができたもので、私をクビにしたら組合が困るという先入観があったから、私はますます増長して、貧乏な協会を困らせるようなことを、次から次へと重ねていったのである。

一晩中街をうろつく

 この巡業では、またこんな武勇伝も残した。久留米で正月相撲をとった一行は、その後佐賀県から長崎にはいり、二月下旬に天草灘へ面した国ノ津港というところで三日間興行することになった。
 この国ノ津港の相撲の初日の夕方、私はその日一日の仕事を終えて風呂に行こうと木戸を出ようとしたところで、たまたま一人のうら若き女性につかまってしまった。
「今晩遊びに来ておくれ」
という。私の若い心ははずんだ。しかし、相変わらずの文なしだが、先方から来てくれといった以上、金はとらんだろうとタカをくくって、日の暮れるのを待って、装束のまま教えられた家へ出かけた。ところが、なんとその家が今日の相撲の勧進元の芸者屋である。

「こりゃいかん。文なしでうっかりはいるとひどい目に会うぞ」と、すっかり立ちすくんでしまった。だが、かたい約束をしたのだ、行かんわけにもいかない。
私もフェミニストだから、どうしたのかと考えたすえ、あの手あるのみと、着ている紋付、袴を脱いで質屋へ走った。そして、もう二月だというのにこれが唯一の私物で、一張羅である浴衣を着て、堂々と玄関から乗り込んだ。

 さて翌日、いつものデンで装束を取りかえそうかと思ったが、伝家の宝刀をあまり何回も抜くのは、効力も少ないし第一面白くない、それに今日のは女が呼び入れたのだから、一つ女にたかってやれとばかりに、

「ネエさん、実はワシは昨日ここへ来るのに、たいせつな土俵の着物を質へ入れて来たんだよ。だから、今日は装束がないので相撲に行けんのだ。なんとかしてくれんか」
と頼みこんだ。ところが、その女というのも私と同様ショッパイ女で、金目になるような物は座敷着のほかにはなにも持っていない。むろん、金もないというのだから始末が悪かった。それでも、こんなところにいる女性だから、昔労を知っていて、

「あんたが、私のために土俵に行けなくては悪いから、私のこの着物と入替にして行司の衣装を引出し、相撲がハネてから、夜、私がお座敷に間に合うように、ちゃんとこれを返しに来てくれたらいいわ」
と、健気な申し入れをしてくれた。人の悪い私は、これこそ渡りに船と思ったが、表面では、「そんなことはできんよ」

と断りつづけ、いかにもありがたがっているというところを見せたあとで、それでは、と着物を拝領して行った。お蔭で二日目の相撲もアナをあけることなく、無事につとめを果たしたが、借りた着物は受け出さず、そんなことももうすっかり忘れてしまい、紋付姿のまま街の別な所へ遊びに行ってしまった。
 その晩、例の女性は座敷へ出られなかったこともちろんだが、オカミに座敷着のなくなったわけをつきつめられ、初めのうちは口をつぐんでいたが、とうとうこらえきれずに、
「相撲の太郎さんに貸したのよ」と話してしまった。
 さあ今度は私が大変であった。その晩、宿へ帰ると、オカミが待っていて、「太郎さん。うちの子供に何をしてくれたの。あんたのような悪い人は、ここで寝させるわけにいきませんよ」
と、えらい権幕で食いつかれ、私も身に覚えのあることだから、反抗するわけにもいかず、追い出されるままに、いつになくしおしおとまた町へ出て、その晩はひと晩中国ノ津の町を、野良犬のようにほっつき歩いて夜を明かした。その寒かったこと。自業自得というのがこれであろう
が、しかしこの難行をした代わりに、例の着物を引出す役目から解放されて、行司の衣装は完全に私のものとなり、差引すると私の方が相当な得になったという妙に悪質な懺悔(ざんげ)ばなし。

ふたたび朝鮮へ

 今でも旅館のない田舎へ旅に出ると、私どもは民家に泊めてもらうことがよくあるが、われわれ一行がこうして九州の山奥を巡業して歩いてた時は、どこへ行っても宿屋という便利なものがなかったせいもあり、ほとんど毎日民家泊りで日を送った。
 
 相撲杜会では、上の者と下の者との間に階級的に大きな開きがあって、その階級によってうける待遇が違ってくるが、この民家泊りでも、関取衆と取テキと呼ばれる下っぱとでは、関取が毎晩柔かい蒲団にぬくぬくとくるまって寝ている時に、取テキたちは荒れ寺の本堂で、がたがたふるえながら夜を明かさなければならないという大きな差があった。

 呼出し時代の私はもちろんこの下っば組の仲間で、おちぶれた相撲の一行の一人として、旅する者のわびしさを痛切に味わっていた。ところが、行司に転向するととたんにすべてが変わった。
泊りも一行の大関なみで、
「太郎さん、今晩の泊りは村長さんの家だよ」
という日が毎日つづき、今までに一度も経験したことがない豪華なもてなしの連続である。そのころの世間は、私にいわせれば全くよくしたもので、いかめしいかんむりに、カミシモのいでたちで土俵へ上がる行司を見ると、あの人は偉いんだと一図に思い込むらしい。私は行司になったお蔭で、自分が知らない間に、すっかり偉い人にまつり上げられてしまっていた。

 だが、いくら偉い人だとハタからもてはやされても、私の懐中は相変わらずの文なし。なにしろ一年三百六十五日を、一枚の着物着たきり雀で過ごしたのである。それに巡業の毎日は、全くおんなじことのくり返しで単調だったけれど、相撲を打つことさえできれば飯を食い上げる心配もないので、私は偉い人とチヤホヤされる誇りからも、時に無茶なイタズラをやらかして、カシラにガナられることはあっても、案外おとなしく一行についていった。

 村から村へと、相撲を打って歩いていると日のたつのは早く、知らぬ間にまた桜の花が咲く正月がやってきた。春が来ると若い私の心はむやみとはずんで、またまた悪いくせの冒険がやりたくなる。

 私の胸のうちは、この時もやはり海外への雄飛を夢みていた。なにしろ十六の年にアメリカを志したくらいだから、いつになってもこの夢はぬけなかった。それに、こんな一行についてドサ回りしていたのでは、うだつがあがらないのはわかりきっており、そうだ、もう一度脱走をしてやれとばかり、一行の幕内力士金時に鶴ケ嶽、それに東京相撲の春日野部屋に居候していたという四海波らとともに、同勢八人で私としては再び朝鮮へ渡ることにした。

 これが私の脱走行第二回目で、朝鮮へ行こうとしたのは、前年ものすごい歓待をうけたことが忘れられなかったからである。が、さて脱走した私たちの懐中は、全部をあわせても五円に満たなかった。それゆえ、満足な旅もできない。唐津の港から仁川へ行くというポンポン蒸汽の石炭船に頼み込んで、ようやくそれに乗せてもらうことにした。

呼出し太郎一代記、ページ61〜72、第三部、雄飛の夢
ベースボールマガジン社
挿絵、伊藤豊一画

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