呼出し太郎一代記、6

前原太郎

三、雄飛の夢、後編

のど元すぎれば

 仁川へ着いたのは四月半ば(明治三十九年)だった。来るには来たけれど、さて何をしようにもわずか八人の小人数ではどうすることもできやしない。といって遊んでいたのでけはすぐ一文なしになってしまうので、誰かいい後援者はないものかとさがしまわった。
 ありがたいことに、今度もまた助けの神がすぐにあらわれた。それは沖仲仕の親方で、昔素人相撲をとったことがあるという大変な相撲好き、たちまち空家の一軒を借りて、さっそく稽古土俵をつくってくれた。
 
 われわれは、ここで一か月ほ一ど稽古をつんだ。タニマチ(相撲社会のひいきのこと)である親方のつもりでは、仲仕連中をいっしょに稽古させたかったらしいのだが、彼らは相手が本職の相撲取りだというところから、いっこうに名乗りをあげる者がなく、これではタニマチの親方に対して申し訳がたたないと、とどのつまりしょうがないので、そこでまた私が裸になった。

 今の私を見てもらってもわかるとおり、若い頃の私も人一倍体は小さいほうだった。そんな私が裸になって、幕内力士だったという金時の胸へ、なんのおそれげもなくぶっつかるのだから、みんなが驚いてしまった。

「なんだ、あいつがやるんだったら、ワシだってやれるぞ」
と気おいたった。何しろ仲仕連中の体ときたら正に筋骨隆々、骨と皮だけの私とはテンで違うのだから、連中がたちまち強気になったのも無理はない。こうして、仲仕連中が稽古に励んでくれるようになったので、われわれの顔もたち、ワシも、ワシもと大勢の衆が名乗りをあげてくれたので、稽古台の相撲取りも結構面白そうだった。
勢い、稽古に来る人の数が増えるにつれて、これがわれわれに刺激を与えて、
「こりゃうかうかしていたら、こっちが素人にアンマされるぞ」
と、相撲に熱を入れるようになった。初めの頃は、こうして相撲に打ち込む楽しさや、見知らぬ土地にいるという好奇心で毎日が大いに愉快だったが、だんだんと日が経つとともに稽古をつけるよりほかには、なんの変化もない毎日に過屈をしだした。

人間というやつは、全くぜいたくなもので、食うに困ってきゅうきゅうしている時は、どんなつらいことでもやり抜くくせに、ちょっと暮らしが楽になるともういい気になって怠けてしまう。この時のわれわれがちょうどそれで、食べる方の心配もなく、毎日をノンビリと過ごせるようになると、とたんに、
「こんな毎日がつづいたんじゃ、いっこうに面白くないや」
と、ぜいたくが口に出るようになった。仁川へ来てから、かれこれ二十日ぐらいだったろう。ある日、われわれ八人は寄り集まって相談した。
「ここにいつまでいたって、この分じゃ、うだつが上がりそうにない。どうだい、またどこかへ高飛びをしようじゃないか……」
 こんな時に連中をあおりたてたのは、もちろんかく申す私で、内地を出る時から冒険をやりたくて、うずうずしていたのだから始末が悪い。
「どこでもいいよ、面白く暮せるところへ行こうや」とばかりさかんに扇動した。このような私に引ずり回されていた相撲こそ、まことにいい面の皮である。

鎮南浦への遁走

 仁川を逃げ出す話は、案外簡単にまとまった。それでも中には、「何もこれからよそへ行って苦労をすることもなかろう」
「いっそのこと、内地へ引揚げたらどうだい」という者もいろいろあったが、
「ワシについてくるのがいやだったら、自分勝手にすればいいよ」とつっぱねたものだから、一人ぽっちにされては大変だと思ったらしく、全部の連中もやはり私のいうままになった。
本当のことをいえば、この時に内地に帰ってさえいたら、これから先の苦難にも会わずにすんでいたのだが、われわれは相変わらずの一文なしだったものだから、内地へ帰りたくとも帰れなかったのである。私にしろ、いくら冒険したい気持をもっていても、生まれた国の日本ほどいいところはないと思っていた。

 さて、どこへ高飛ぴしようかという話になって、われわれはハタと困ってしまった。今もいったとおり着たきり雀の文なしである。船に乗るにしたって、かんじんの金がない。そこで、私はクダで乗せてやるという、おとこ気のある船長をさがし回った。
 
 運がいいのか、そんな船がすぐに見つかった。それは鎮南浦へ行くという貨物船で、「あんた達は力が強いようだから、どうだ、積荷の揚げおろしを手伝ってくれるかね。それをやってくれる気があるのなら、乗せてやるよ」という条件で取引きができた。相撲取りは迷惑をこうむった
かもしれないが、私としたらこれこそ正に渡りに船だ、とばかり大喜びで乗り込んだ。
鎮南浦へ上がったのは、確か六月の半ばごろだったように覚えている。その港へ来たまではよかったが、そこの街も仁川と似たりよったりの不景気だった。それゆえ、相撲を売り込もうとしてもてんで相手にされず、われわれはここでもまたたちまち立往生をしてしまった。だが、商売にならないといって遊んではいられない。遊んでいたのでは、今日の日のオマンマも食べられないんだから……。
 
 私は上陸するや、その足で八方飛び回ってもうけ口をさがして歩いた。初めの二日は足を棒にしたけれど、やっと三日目に仕事が見つかった。それは港の近くにあった汽車会社の工員相手の稽古台で”またか”と思ったが、ひぼしになる運命にせまられているこの時に、そうぜいたくをいっておれない。
条件もはっぎり決めずに話をまとめて来た。そして、その翌日から、われわれは四時ごろに会社へ出かけて、工員たちの仕事が終わるのを待ち、夜相撲で稽古をつけ始めた。

 大親分吉田啓次郎

 こうして、また二十日ほどが過ぎた。ここでも初めのうちはよかったのだが、思うように金をくれないものだから満足にめしも食えなくなって、とうとう相撲取りは怒りだした。
 今度の場合は私に失敗があった。初めの話し合いの時に、はっきりと条件を決めておかなかったので、会社の方に甘い汁を吸われてしまい、いい気になってこき使われたのだ。そのため、
「やい太郎、お前のためにこんな目に会うんだぞ」
と、相撲取りにこずぎ回されるし、いつもの太郎の面目は丸つぶれで、さんざんのていたらくだった。もちろん、私はムカッ腹をたてて再三会社側へ談判したが、こちらの腹の中を見すかされているから、いっこうにどうもラチがあかない。そこでまた、われわれは寄り集まって今後のことを相談した。

今度は仁川の時とは違いみんながもうすっかりくたびれて、ぜんぜん闘志をなくしていたので、話はいきおい安易な方へと落ちていった。「どこか、いい親方さんのところを尋ねて行こうじゃないか!」
 誰いうとなくこうきり出して、話がまとまった。私もいささか疲れ気味で「クソ」という意気地もなく、「それがよかろう」と先に立って、いい親方はこの近くにはいないものかと、方々を聞いて歩いた。前にも書いたけれどこのごろの相撲取りは、食いつめると土地の親分を尋ねて行って、世話になるのが常道になっていた。

 港町の鎮南浦のことだから、たぶんこの町にも相当理解のある親分がいるだろうとさがしたが、不思議なことにそのような人は一人もいなかった。町の人の噂によると、この鎮南浦へ注いでいる大同江を七里ばかりさかのぼった兼二浦というところに、この辺第一の大親分がいるということだった。
「よし、そこへ行こうや」
と、われわれはこの話を聞いた翌朝、米びつの底をさらって飯を炊き、おにぎりをつくって勇躍出発した。船でさかのぼれば、二時間もあれば行き着くとのことだったが、わからない道をたずねたずねていくので、むこへ着いたのは夕方の五時近かった。着くとわれわれはさっそく親分に仁義をきり、いろいろとくわしく事情を話して、しばらく世話になることを頼んだ。すると、

「おう、いつまでもいたらよい。ここにいてうちの若い者を鍛えてくれ」
と簡単に承知してくれた。その親分というのは、岐阜の人で吉田啓次郎といった。内地で何か事件を起こし、それでこの地へ高飛びして来たとのことで、噂通りの腹のできた人だった。

 われわれはあくる朝から、すぐに庭の片すみへ土俵をつくりにかかった。そしてこれができ上がると、二十人くらいの若い衆を相手に稽古を始めた。稽古、それは相撲の道へはいった者には、どこへ行ってもつきまとうもので、稽古のイヤな者は、いかに天才的な素質があっても立派な相撲取りにはなれない。全く稽古が力士のイノチである。で、ここでもわれわれは、やはり稽古をつけることからのがれることができなかった。

 ここの若い衆たちも、デカい体の相撲取りにぶっつかって行くのをこわがった。そこで、まず私が裸になって手本をしめし、その次は私が胸を出して稽古をつけた。いい体のアンちゃん連ばかりだが、十一の年から相撲の道にはいって鍛え上げた私にかなう者がいなかった。お蔭で、親分はこの私を非常にたいせつにしてくれ、どこへ行くときも、
「太郎、いっしょに行こう」
と連れて行かれた。この時分の私はまだ盃を取り交わしていなかったから、何も子分ではなかったのだが、この親分のところへ、ある日のこと果たし状がつきつけられた。親分は、
「みんな心配するといかんから、誰にもいわんでくれ。相手が誤解していることだから、向こうへ行って話せばすむんだ。若い連中にいうとかえって事が大きくなるからな……」

と、厳重に口止めをされた。吉田親分はこんな肝っ玉の太い人であったのだ。それだけに私も好きになった。そして出入りのことが心配で、その日が近づくと夜よくうなされて、「太郎、お前体でも悪いんじゃないか?」といわれるほど心配でならなかった。
 
 喧嘩場へ乗り込む

いよいよその日が来た。親分はやはり一人で行くという。とうとう私は黙っておれなくなり、「手足まといになるかもしれませんが、どうか私をいっしょに連れて行って下さい」といった。だが親分の決意はかたく、
「いや、今日だけはいかん。これからまだまだ将来性のあるお前に、巻ぎぞえをくってもらっちゃあワシの男が泣く……」
と同行を許してくれなかった。「いってらっしやい……」 何も知らない子分たちに見送られて、親分はいつものように、
「ああ」
と、笑顔でこれに答えて出かけて行った。心の奥ではきっと悲壮なものがあったろう。一方、私はしばらくボンヤリと突っ立って、親分の後ろ姿を見送っていた。そんな私を、
「ちょっと太郎さん」
と、おかみさんが陰へ呼び寄せた。そして、
「ねえ、あんたすまないが、親分のあとをついて行ってくれない?親分はあんなに強気なことをいってたけど、私は心配でならないのよ」
という。私はもちろん二つ返事で「アイよ」とばかりすぐに身仕度をして、着物の奥におかみさん
から渡されたアイ口を放り込んだ。今まで相撲取り相手に何度となく喧嘩をして、喧嘩度胸はついているつもりだったが、アイ口を持ったのはこれが初めて、気持がピシッと引きしまって思わず身ぶるいがした。

一口に平壌といっても、その頃のことだから汽車がない。乗り物といえば、馬に引かせて行くトロだけである。
「ここヘトロを呼ぶと、みんなに目立っていけないから、途中で拾って乗って行ってね」
と、おかみさんにいわれたうえ、「気をつけてちょうだいね……」

おかみさんただ一人に送られて、死地へおもむく気持で喧嘩場へと出かけて行った。
 さて、日頃度胸があるのを自慢していた私だったが、いざとなると、こんな度胸はアテにならない。目的地の平壌が近づくにつれトロにゆられながら、ブルブル、ガクガクと夏の暑い時だったのにふるえが止まらず、腋の下からは冷汗が流れた。そんな気持で、かねて親分から聞かされていた喧嘩場へ乗り込んだのだが、行って見ると、草の中で鳴く虫の声ばかりがやかましく、命をやりとりする喧嘩があったような様子もない。

「変だなあ、場所を間違えたのかな?」
と、私はしばらくその場へたたずんで、あっ気にとられていた。と、そこへ一人の若い衆が現われて、
「吉田親分のところの太郎さんで……」
ときた。一瞬私はドキンとしたが、相手の顔を見ると、ニコニコ笑っている。

来の前原親分?

「仲裁がはいりまして、無事に話が片づいたんです)親分さんはいま、寿楼って所へ行かれて、これから手打ち式をおやりになるんです。向こうへ行かれる時に、『ウチの若い者の太郎というのが後からかけつけるかもわからんので』とこうおっしゃったものだから、それで今まで私がお待ちしていたのです……」
と事情を話してくれた。これを聞いて私はホッとした。やれやれ、これで助かった、それにしても、親分が私が後からつけるかもわからないと、心待ちにしていてくれたのを知ってひどく嬉しかった。寿楼へ行って見ると、手打ち式もすんでなごやかに盃が回っているところだった。親分は私の顔を見るなり、

「やっばりついて来たか、よく来てくれた、ありがとう」
と、涙を流して喜んでくれた。そして親分の兄弟だという、この日の仲裁役である大鹿という親分に、「これがさっき話した相撲の太郎という呼出しだよ」と引きあわしてくれた。

 私たち二人は喧嘩の後始末をすませ、二日ほど平壌で遊んで兼二浦へ帰った。それから一週間ほど経って、大鹿親分がわれわれのところを訪れてきた。別にこれといった要件はなかったが、親分とノンビリ盃を交わしながら雑談をしていった。私も一度部屋へ呼ばれたが、ただ挨拶に呼ばれたというに過ぎなかった。ところが夕方になっておかみさんが、

「親分が呼んでますよ」
とまた呼び出された。何ごとならんと行ってみると、
「実はな」
と、大鹿親分が開きなおって切り出した。

「お前さんが、相撲の呼出しであることはよく知っている。だが、いったん飛び出した以上、なかなか元の相撲界へ帰ることもできまいから、どうだひとつわれわれの世界へはいってみたら。そりゃ世間からはヤクザといって毛ぎらいされているが、この社会にはまたここなりのよさがあるんだ。それにこういったら変だが、いい親分になる素質を持ってるよ。何もわしはお世辞をいうわけじゃないが……」
 
どうも大変な話である。藪から棒にいきなり話し出されて私は目をパチクリした。むろん、相撲には、まだ十分すぎるぐらいの未練があるし、それにヤクザになれというのだから大問題である。そこで、「はあ、お話はよく解りますが、今晩ひと晩考えさせて下さい」
とその場を引きさがった。

 ひと晩中、私は考えた。今さら東京相撲の復帰もかなわないだろう。もしかして、巧く相撲へ帰れたにしても、今よりちょっとましなところへしか行けやしない。それより大鹿親分までがああいってくれるのだから、うちの親分の片腕になるほうが身のためかな。前原親方?か、ヘン悪くもないな……。明け方近くになって、

「よし、なんで男をあげるのもおんなじだ。バクチうちになって立派な親分になってやれ」こう結論を出した。翌朝、私は親分のもとへこの旨を話して、大鹿親分の仲だちで、とうとう親分子分の盃をくみかわしたわけである。

呼出し太郎一代記、ページ72〜94、第三部、雄飛の夢
ベースボールマガジン社
挿絵、伊藤豊一画

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