呼出し太郎一代記、9

前原太郎

五、人間裏街道、前編

岐阜から中国路へ

 明治四十一年という年は戦後景気もようやく頂上を過ぎて、前の年二月におきた足尾や別子などの鉱山の暴動争議についで、三月には多くの銀行がバタバタつぶれるという騒ぎが始まり、世の中もひどく物騒であった。足かけ六年ぶりで舞いもどった東京にも、放浪癖にとりつかれてしまった私などには、面白いことが一つもない。

 しかし、本場所の大相撲の方は名力士の顔ぞろいで、大した景気だったのがなおさら私には癪
のタネだった。
ちょっとその時分の番付をさがしてみると、横綱に大砲、梅ケ谷、常陸山がいて、大関は国見山に駒ケ嶽、荒岩、関脇が太刀山に錦洋、小結が玉椿に尼ケ崎、東前頭の筆頭は緑島(先代立浪)、同じく七枚目に後の大関伊勢ノ浜(以上、四十一年正月場所)などである。

 岐阜の吉田一家の厄介になっていると、間もなく東京相撲が合同で岐阜へ乗り込んで、ここで
幾日か興業することになった。私も岐阜へ出てはみたものの、大していい目が出るわけのもので
なし、何ともしょうがない。東京相撲が来たのを幸い、もういっぺん頭を下げようと覚悟を決めた。覚悟は決めたものの、さて、旅先きでは口をきいてくれる人もなかったので、相撲の一行が岐阜を打ち上げて、広島に行くというその同じ汽車に乗り込んで、黙って広島について行った。

広島へ行ってから石井さんという顔役にお詑びを頼んだのだが、「あいつは怠け者だからだめだ」といっこうに取り上げてくれない。
 旅館に泊まっているんだから、宿賃は重なるばかりだし、金はないし、お詑びはかなわないしでどうにもしょうがない。口をきいてくれた人も気の毒がり、「これで宿賃を払って何とか考えろ」といって、五円くれた。こっちはもうヤケクソになっていた矢先、前後の考えなんかはありはしない。ただもうヤケッ腹だ。その晩、西遊廓にシケ込んで、その五円をいっぺんに使ってしまった。いま考えてみれば、これも途方もない乱暴な話である。

 あくる朝、眠が覚めて見ればふところには一文だってありゃしない。「こいつはえらいことしてしまった」と今更悔んでみたが、もう後の祭りで、宿屋に帰る訳にもいかないし、そうかといって他にあてもないし、どうしたものかと考えながら、ブラブラ宇品まで歩いて行った。

 宇品という所は、広島市内のずっとはずれの船着場で、四国通いや、島通いの汽船の発着場だから、ちゃんとした待合室がある。ほかに行くところもないから、ともかくその待合室にはいって、黙って考え込んでしまった。ところが、世の中というものは狭いというか、何というかおかしなもので、類は友を呼ぶとでもいうのであろうか、見れば、私と同じようなやつが、同じ待合室で同じように頭を抱えているではないか。

「どうした、若えの、女にでもふられたんかい」
「いいや、そんなイキ筋じゃねえ。実はこれこれで手も足も出ねえんだ」
「そうか。どうだい、ひとつおれといっしょに来るか」
この男、どうやら話の様子では、インチキ賭博仲間のイカサマ師らしい。こっちはイカサマ師だろうが何だろうが、この場合溺れる者藁をも掴もうという時である。

「よかろう。いっしょに行こう」
と、汽車賃まで出してもらって行ったのが、当時軍港で景気のいい呉だった。泊まった先は木賃宿だったが、宿賃も何もその男が払ってくれる。二、三日はバクチを打ったり何かしていたが、そのうちいつの間にか、その男もどこかへ行ってしまった。そいつがいる間は食わしてくれたが、いなくなってしまえば、私は相変わらず一文なしだから、その日から食うことができない。木賃宿の婆さんからはヤイヤイ催促される。

「おばさん、そんなこといったってだめだよ。あいつはどっかへ行っちゃったし、おいらには金がねえし……。おいらはこの通り身体がいいから何でも働きてえのだが、どこか固い働き口はねえかねえ?」

「お前さんが働く気なら、いい口があるから世話しよう」
というので、砂利運びを紹介してくれた。この砂利運ぴというのは、車を貸す所があって、その車に砂利を積んで、山から現場まで運ぶのだが、それを一車運ぶとその時分で二十五銭になった。だから、丈夫なやつは四回も五回も運んで、相当な金になるのだが、私は身体がいいとはいっても、こういう重労働はすぐノビてしまう。一日一車だけ運んだのでは、車の借賃が一日十五銭、残りは十銭しかない。

手拭い十本・もうけが三円

 これじゃとても飯が食えないから、車の借賃を十銭に負けてもらった。これで一日十五銭のもうけになる。十五銭出すと木賃宿で三度食わしてくれて、ゴールデン・バットを一つくれるのだが、これではただ骨が折れるばかりでどうにもならない。

「おばさん、砂利運びはとてもおれの力じゃ勤まらねえ。何とかほかに工廠の仕事でも世話してくれよ」
「工廠の仕事だってあるけどね、お前みたいな役者には、とてもできやしないだろう」
「おれは役者じゃねえぜ、相撲の呼出しだよ。何だって、できねえことはねえからやらしてみてくれ」
「お前さんは呼出しかい。そんならできるかもしれないが、まアできるかできないか一度見ておいで……」

 それもそうだ、見てからにしようと見に行ったところが、大きな車に石炭をいっぱい積んで、そいつの後押しだ。見ただけでがっかりしてしまった。
「おばさん、あれじゃ砂利運びよりまだひでえや、とてもできそうもないよ」
「そうだろう。でも、あれもできない、これもできないじゃ、しょうがないじゃないか。一体どうするんだい?」

「まアそういうな、おれにいい考えがある。新しい手拭いを十本貸してくれ」
 その時分のことで、手拭い十本といっても安いものだから、木賃宿の婆さんも気軽に貸してくれた。工廠の前に、ずらりと大小の料理屋が並んでる。そこへこの手拭いを持って行って、

「こんちワ……今晩、朝日町に相撲の稽古がありますから、どうぞ見に来て下さい」
といって、手拭い一本ずつ置いて歩く。翌日、「相撲の稽古は、お陰様ですみました」

と回ると、みんな三十銭ずつくれるから、十軒歩けば三円になるわけだ。むろん、実際のところ相撲の稽古がほんとうにあるわけではない。向こうだって、そんなことは百も承知なんだか、しょうがないから捨扶持のつもりで三十銭ずつ出すのである。ともかくそこで三円の金ができた。

三円あれば、三日や四日は遊んでいられるが、考えてみれば、いつまで木貸宿のお世話になっていてもうだつが上がらない。九州の若松には、かねていっしょに太鼓回りをしたことのある、非常に気のいいおやじがいることを思い出したので、このおやじにひとつ頼んで見ようと、呉の木賃宿はこれを機会にさようならをした。

浪花節の新弟子

 若松に行っておやじに頼むと「しょうがないやつだ。しかしお前、働く気があるなら世話してやろう」といって、松井楼とい旅館の風呂たきに入れてくれた。ここで幸いなことには、今までお相撲さんの背中を流していたものだから、お客さんがみんなうまいうまいと喜んで、十銭ぐらいずつはくれる。十人あれば一円にはなるのだ。一円あれば女郎買いに行っても泊れる時分だから、これは大したもので、当分のあいだ、私は神妙に風呂たきを続けていた。

 その旅館に、東陽一新という浪花節語りの夫婦が泊っていて、そのおかみさんの背中を流して
やってると、「兄さん、あんたなんで風呂たきなんかしているの?」

「何でといって、わたしはもともと相撲の呼出しなんですが、食いつめちゃってこんなことをしているんですよ」
「相撲の呼出しをしたくらいなら、声は出るだろうね?」
「声の方なら、自慢するほどじゃねえが、幾らかは出ますよ」

「それじゃひとつ、こんな風呂たきなんか止めちゃって浪花節語りにならないかい」
「浪花節語りなんて、そんな簡単になれますかね」
「なれるもなれないも勉強しだいだよ。うちの先生なんか二十五でなったんだもの…やる気なら先生に頼んでやるよ」
「それじゃお願いします」

というようなわけで、宿屋の風呂たきが浪花節語りに出世することになった。「今直ぐ連れて行くというのでは、この宿屋に具合が悪い。あすは佐世保に行くから、あっちへ行ったら迎えをよこすから、迎えといっしょに来なさい」ということで別れた。二、三日経った夕方、向こうの方で頻りにおいでおいでをしているやつがある。

行ってみると、先だって話をした東陽一新の使いの者だが迎えに来たという。さっそく風呂たきを飛び出しその迎えといっしょに門司に行って、浪花節の弟子入りをした。
 ところが、この浪花節語りなるものがたいへんな大将で、おやじの東陽一新というやつは夫婦で旅館に泊り、われわれ弟子どもはみんな小屋へ寝泊りする。朝何時何分に宿屋へ来いというから、その時間に行くと、奥の座敷におやじが寝ていやがって、私らは玄関の火鉢に頬杖ついて、起きてくるのを待っている。そのうちに起きてきやがって、

「オイッ、そんな行儀ではいかン。朝起きたらちゃんとかしこまって、こうやっていなくちゃいかン」
「ハイ」
とかしこまって、黙ってすわっていると、卵を二つ三つ持って来て、これを紙に包んで置けという。私は相撲の習慣で、紙なんぞは大雑把に扱うものだから、

「オイッ、そんなことではいかン。紙が十枚あれば、キチンとこういうふうにそろえなければいかン。ちゃんとそろえた紙はお前にやるから、便所へ行くときは新聞でも何でも拾って行け」といやがる。今度は神様の道具を箱から出して、これを洗っておけというから、さっそく水を持って来て洗い始めると、

「コラコラ、そんな洗い方をしてはいかン。ちゃんとバケツに水があるのだから、水の中で洗うのだ。上の方で洗っていて、もし落っこちたらどうするんだ、われちゃうじゃないか。そういう ことはいかン。水の中で洗うようにしなければいかン」

 今度は下駄を洗えというから、畳付きの下駄を洗っていると、「コラコラ、そんな洗い方をしてはいかン。畳の目にゴミがはいっちまうじゃないか。よく見ろ、ほらこうして洗うんだ」と、いちいち口やかましく叱言をいうのだから、実にたまったものでない。

次はサーカスの後見役

 しかもこの浪花節というのは、師匠は決して教えないもので、弟子はみんな、聞き覚えで修業するものなのだ。例の「何が何して何とやら……」というのだけ教える。節だけではなく、話のほうも聞き覚えで覚えなくちゃならない。ほかの相弟子も「あんなわからずやの先生はないよ」

とたきつけるものだから、私もばかばかしくなってしまった。二日ばかりおったら、「東陽一新」という法被と下駄を買ってくれたので、こいつをもらってさっさとそこを飛ぴ出してしまった。

 飛び出しては見たけれども、もとより行くところがあるわけでない。今更旅館へ帰って、風呂たきに舞いもどるわけにもいかない。しかたがないから、また呉にでも行ったら、何とかなるだろうと思って呉へ帰った。

帰ってみると、いいあんばいに大林太右衛門という大阪相撲の親分が来ている。この親分に話をして、太鼓の手伝いをしたら金三円也が出た。何にしても、浪花節語りの法被一枚じゃしょうがないので、さっそく古着屋にとぴ込んで絣の羽織を一枚、一円ふんぱつして買って来た。古着屋で一枚一円といえば大したもので、裏にはちゃんと甲斐絹がついていた。

 懐ろにはまだ残りの金があるし、そいつを着込んで、今度は大威張りで元の木賃宿に泊り込んだ。そこまでは大できだったのだが、夜が明けてみると、一張羅の羽織も着物もそっくりなくなっていた。世の中には上には上があるものだ。私のような人間の物を盗んで行くやつがいるのかと思うと、腹が立つよりおかしくなってしまった。ほんとうの丸つ裸でどうにもしょうがない。

宿のおかみさんが、うちの人の寝まきでも着てなさいといって貸してくれたから、これを着て、ともかく交番に届けに行った。けれども、ふうていが悪いので、交番の巡査はいっこうに相手にしてくれない。私もシャクにさわったから、あきらめて帰って来てしまった。

 その時ちょうど、有田サーカスが呉で興業していた。その時分はまだ、有田洋行という名前ではなく、確か明治団といっていた。それが盛り場で威勢よくブカブカドンドンやっていたので、そこへ飛び込んで何とか使ってくれないかと頼んでみた。

「使ってやらねえこともねえが、お前高い所へ上がれるか?」
「高い所っていったって、櫓みたいな所ならいくらでも上がりますよ」
「そんなら、一つ登ってみせろ!」という。こっちはそんなことお手の物だから、平気でやって見せたら、
「こいつア大した若けえ者だ。使ってやるから辛棒しろ」というわけで、それから有田サーカスの飯を食うようになった。飯が食えるようになったのはいいけれども、初めの役は例の後見というやつである。

後見というとたいそう立派な名前だが、実際はクソ浚いにすぎないのだ。というのは、熊が芸をやる。熊というやつは、舞台に上がると必ず舞台のまん中にクソをする。そのクソを取るのが後見という者の役目なのだ。そのクソを捨ててしまうと今度は棒を持って待っている。

熊のやつは芸が始まるまでは何も食わせないから、腹がへってしょうがない。太夫はそれを利用して、こっちでパンを持ってじらすと、食いたい一心で、太夫さんのいいなりしだいになるのだが、あまりやっていると、しまいには怒って太夫をパッと抱き込んで締めるのだ。

中札売りまで出世

 熊に締められたら太夫さん持たないから、その時に棒で、熊を殴るのが私の役目なのだ。棒で叩かれると痛いからパッと手を放す。その殴り役というわけである。ところが、だれも口上をいうやつがいないで困っているようだから、
「わたしが口上をやりましょうか!」
「お前、できるのか?」

「まア、そんなにうまくはねえが、できねえわけでもねえから……」
というわけで「エ−、東西々々」とやり出した。これを見た太夫元が、
「あいつは、大したやつだよ。何でもできるぞ。高いところへも平気で登れるし、口上もうまいし、あんなのはめったにいるもんじゃねえ、あいつは引立ててやれ」
というわけで、すっかり太夫元のお気に入ってしまい、服を一着くれた。

間もなく呉を打ち上げて、福山でちょっと興行し、神戸に博覧会があったので、その博覧会の前で、今度は有田洋行という名前で暫く興行していた。その時、まだ十二だというきれいな女の子が一本竿の上で芸当をやる。それが受けてスゴい人気だった。私も太夫元のお気に入ってだんだん引き立てられ、神戸では中札を売るようになった。

この札売というのは、十年から十五年務め上げた者でなければ、なかなかその役をやらしてくれないものなのだが、私はすっかり信用されて、それを任されるようになった。

 この時の勧進元というのは、神戸の親分ばかりで、英商会という大きな雑貨店の親分、小林の親分なんというのが主だった連中で、私が札売人、別にまた太夫元の代理人というのが、札を出し入れしている。
「太郎さん、すんだらあとよろしくやっとくれ」
「ああいいよ」
で、いつも後始末をやっていた。するとある日のこと、ひょっと見ると札が置いてある。勘定してみると百枚あったが判が捺してないけれども中売りだから、売ってしまったってわかりはしない。百枚売れば十円になる。当時の十円だから大したもので、こいつはいいと思って威勢よく売っていた。

 そのうち雨が降ってきた。雨だから入れかけになって勘定をすると、布団が二百枚売れたのに、こっの札は六十枚ぐらいしか売れてない。布団が売れて、札がそれだけ売れていないというわけがないから、それで足がついた。「ちょっと来てくれ」というから行ってみると、英商会の兄い連が並んでいやがって、「ドアーを締めようか」なんて、何となくすご味があるもんだから、こっちもふるえちゃった。

「ヤイ、白状しろ」
「白状しろって……何を白状するんでんかい」
「てめえ、悪いことしたろう。札を売ってどうしやがったんだ」
「悪いことかどうか知らねえが、あそこへ礼が落っこっていたから売ったまでのことだ。そのうち雨が降って来たんだ、まだ勘定も何もしてやしねえ。札を売ったのは悪いかしらねえが、あそこへ札を置いてあるのが大体よくねよ」
といってやった。すると三人のうち一番年の若いのが、

「こんなの、たたッ斬っちまえ」
なんていきなり立っている。こっちは、しょうがないからただ黙っている。

京都で馬のカイバ切り

やがて兄貴分らしいのが、
「見っともねえ話だ、こいつだって売ったのは悪いことは知ってるんだが、札が傍にあったのもいけねえ。雨が降って入れかけになったんだから、あと出したかどうかもわからねえ。しょうがねえじゃねえか」
というようなことで、どうやらたたッ斬られずにすんだが、代埋というのもまっ青になってしまって

「さっそくきょう暇を出します」
とふるえながら謝まってようやく事が治まった。事件は治まったけれども、有田洋行を出されてしまった私は非常に困っていると、英の親分が、「お前もそれじゃしょうがないだろう。有田洋行も、 もうここを打ち上げて出発してしまうから、あとでおれの所へ来い、番頭にしてやる。すぐじゃ具合が悪いから、その間どこかへ行っていろ」
といってくれて、小遺いとして五十銭銀貨で三円ばかりもらった。

「どうぞよろしくお願いします」
と、その三円で神戸から京都へ行くことにした。途中大阪へ寄ってブラブラ歩いていると、何というところだったか、頻りに土俵を積んでいる。
「何かあるのかい?」
「うん、相撲があるんだ。小屋ができしだい相撲をやろうてんだ」
「おれは行司もやるし、呼出しもやる。おれを使ってくれねえかなア」
「そうかい。行司ができるのかい。それアいいところへ来てくれた。やってくれ」
「やりましょう。だが、おじさん、相撲をやるったって、ただやったんじゃだめですよ。太鼓を回しなさい」

「太鼓回すったって人がいねえよ」
「人夫を二人雇ってくれれば、おいらが回って来るよ」
「そうか、そいつはいい考えだ」

 さっそく人夫を二人雇って来る。そのころは一日使っても一人二十銭だ。 二人にかつがせて、私が一人でトロンコトコトン……。こっちは本職だからうまいものだ。これでずっと北の新地を回る。あそこへ行くと、どこの家でも十銭、二十銭と包んでくれる。それでご三十分ぐらい回ると、相当の小遺いになるのである。晩になると裃をつけて、ハッケョイッ、ノコッタノコッタとやるものだから、向こうでも大いに調法がって、相当の小遣いを稼ぐことができた。

 さて京都へ行ってみると、京都には相撲もないし、これといって働く所もないし、懐ろはだんだん寂しくなって来るので、盛り場へ行ってみると、田島という曲馬団みたいなのがある。よし、ここでひとつ働いてやろうと思って、

「こんちワ・・・・。わっしを使ってくれませんか?」
「お前さん、経験があるかい」
「経験といっても、有田で二か月ばかり手伝ったことがありますよ」
「そんならよかろう。働けよ!」
というわけで、そこにはいり込んだのはいいが、はいるとそうそう馬のカイパ切りをやれという。カイパなんというのは、見たこともないし切ったこともないから、こいつは熊のクソ浚いや後見のようなわけにいかない。しかし、そこはよくしたもので、何とかゴマ化しながらやってみた。

浴衣姿で小倉へ脱走

 そのうち、京都の大宮という所にお祭りがあって、そこで興行をやっていると、昼日中、本町とかの安井一家とかいうバクチうちがやって来て、す−と黙って大手を振って木戸からはいってしまった。礼売りが、

「オイオイ、礼がなくちゃいけないよ」
「ナニいってやがんだい。おれの顔知らねえか」
とか何とか、一言二言いい合ったかと思うと喧嘩になって、向こうのやつを一人二人ぶんなぐってしまった。

 タ方から夜の部になるので、一番太鼓をドーンドーンと打ち出すと、そこへわ−ッと三十人ばかり、「安井一家を知らねえか」と押しかけて来やがった。こっちも負けてはいない。入り乱れての大乱闘になったが、向こうの方が人数が多い。こっちは十人ぐらいしかいないものだから、太夫元まで殴られてしまった。

 私も喧嘩なら大好きだから、二人三人を相手に奮闘していると、層間のあたりを丸太で、ガッとやられてフラフラッと引っくり返ってしまった。そのうちに巡査が駈けつけたり、仲裁がはいったりしてその場は治まったようだが、気がついてみると、私は病院にかつぎ込まれている。しかし、傷も大したことはなく、間もなく京都を打ち上げて、姫路まで興業に行った。そこへ京都の裁判所から、すぐ出頭しろという命令が来た。私も驚いて京都へ行くと、駅には五、六人のパクチうちが集まっていて、

「裁判所へ行ったら、どうかひとつ穏かにしてもらいたい」
「それァ、おれはどっちだっていいが、おれよりは太夫元へいってくれ……」
 太夫元の方でも、
「まア穏便にしてやろう」
という話になって、裁判所のほうは大したこともなく、示談みたいな形でどうやら無事に納まった。その礼という意味だったのか、相手のバクチうち連中から浴衣をもらった。それを着て、私はまたそこで脱走してしまったのである。

 どこへ行こうというかくべつの当てがあったわけではなかったが、今度は九州の小倉へふっ飛んだ。ここで何とか働く口を探しているうちに、魚屋の小僧に世話してくれる人があった。おかみさんは死んでしまって、息子とおやじがやっている。そこの小僧にはいって、店にいるとお客さんが来る。魚を売ってお金をもらうとおやじが見ている。

「大将お金入れますよ……」
 パラバラッと、三十銭なり四十銭なり箱の中に投り込むんだが、うまい具合にやると必ず五銭ぐらいはこっちの手に残る。店がしまうと風呂に行く。これも五銭や十銭はゴマ化せるから、結構小遣いには不自由しないので、暫く魚屋の小僧で働いていた。

そうこうしていると、その魚屋に東京から入営の通知が来た。区役所から正式の通知状じゃないけれども、「軍国のためとは申しながら、実に御苦労の至りに存じ候。聊か何々のために、来る何月何日、本所二葉町小学校に於て送別会を相催すべく候間、是非とも御出席被下度……」

と、いうような端書である。魚屋のおやじも、 それじゃすぐに東京に帰れといって金一円くれた。だが、一円ではどうにもならないので、どうしたものかと思案していたら、大江山という素人相撲と、玉椿という大阪にいたことのある相撲取りが、馬関で相撲をやるという話を聞いたので、さっそく馬関まで働くつもりで出かけて行った。

ベースボールマガジン社
呼出し太郎一代記、ページ113〜132、第五部、人間裏街道

挿絵、伊藤豊一画

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